占守島の戦い

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占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)

太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 – 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄(8月9日)したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。鬼畜の所業

両軍の状況

大日本帝国

日本側は、陸軍第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)隷下の諸部隊が、対アメリカ戦を予想して占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。1945年(昭和20年)になると本土決戦や北海道本島防衛のため兵力が引き抜かれたが、終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。また、これまで北方方面はほとんど戦闘がなかったため、食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であった。さらに、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊も置かれていた。

海軍千島方面特別根拠地隊を置いていたが、陸軍同様に主力を北海道へ移転して解隊してしまい、南部の片岡基地を中心に第51、第52警備隊などを配置している程度だった。

航空戦力は陸軍飛行戦隊と海軍航空隊を合わせても、わずか8機の旧型機が残っていただけであった。

1945年(昭和20年)に至っても主たる仮想敵はアメリカ軍であり、ソ連に対する戦備としては特別の配慮はなく、対米戦備がそのまま利用されるものとなっていた。守備戦力が減少したことから配備方針は決戦から要域確保に変更され、幌筵海峡の通行阻止に重点が置かれた。そのため5月には、幌筵島南部の陸軍部隊を幌筵海峡に面した柏原附近に集中させ、占守島についても南部に4個大隊を集中配備して、北部には遊撃戦任務の1個大隊のみが配置された。ただし、北部でも国端崎などの一部拠点については死守し、可能な範囲で敵の内陸侵入を阻止するものとされた。

兵力は以下のとおり。但し、日本軍は直接戦闘に加わったのは在占守島の8,500人のみで残りの兵力は幌筵島にあった。

  • 陸軍(約23,000人)
    • 第91師団:師団長・堤不夾貴中将、師団司令部と歩兵第74旅団(5個大隊)は幌筵島。
      • 歩兵第73旅団(5個大隊):旅団長・杉野巌少将、千歳台。
        • 独立歩兵第282大隊:大隊長・村上則重少佐、四嶺山。
        • 独立歩兵第283大隊:千歳台
      • 戦車第11連隊(九七式中戦車「新砲塔チハ」20両、「旧砲塔チハ」19両:計39両、九五式軽戦車:計25両) :連隊長・池田末男大佐 師団編合部隊、千歳台。
        • 第1中隊:山田野
        • 第2中隊:田沢台
        • 第3中隊:天神山
        • 第4中隊:大和橋
        • 第5中隊:緑ヶ岡
        • 第6中隊:基谷
        • 第11対空無線隊
    • 船舶工兵第57連隊残留隊 – 特大発動艇20隻。
  • 海軍(伊藤春樹中佐。約1,500人)
    • 占守通信隊(司令:伊藤春樹中佐)
    • 第51警備隊
    • 第52警備隊
  • 航空部隊
    • 陸軍飛行第54戦隊残留隊 – 一式戦闘機4機。
    • 海軍北東航空隊北千島派遣隊 – 九七式艦上攻撃機4機。

ソビエト連邦

1945年(昭和20年)8月15日、極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、第二極東方面軍司令部(司令官:マクシム・プルカエフ上級大将)と太平洋艦隊司令部(司令官:イワン・ユマシェフ大将)に対し、千島列島北部の占領に関する作戦の準備及び実施を命令した。

参加兵力は以下のとおり。

  • 陸軍(8821人)
    • カムチャツカ防衛区(司令官:アレクセイ・グネチコ少将)
      • 第101狙撃師団(師団長:ポルフィリー・ヂヤコフ少将)
      • 第198狙撃連隊
      • 第5独立狙撃大隊
      • 第7独立狙撃大隊ほか
  • 海軍
    • ペトロパブロフスク海軍基地(司令官:ドミトリー・ポノマリョフ海軍大佐)
      • 警備艦2隻、機雷敷設艦1隻、掃海艇4隻、輸送艦14隻、上陸用舟艇16隻など計54隻。海軍歩兵1個大隊。
  • 航空部隊(計78機)
    • 陸軍第128混成飛行師団
    • 海軍飛行連隊1個

戦闘経過

上陸前の戦闘

8月12日に、アメリカ艦隊が幌筵島などの北千島一帯に砲撃を行ったが、占守島には行われなかった。

14日 カムチャッカ半島ロパトカ岬のソ連軍砲台(130mm砲4門)が、竹田浜付近の砂浜に数発の砲撃を行った。

15日 日本軍のポツダム宣言受諾が公表され、正午にはソ連軍を除く連合軍は積極行動を停止し、大部分の戦線で停戦状態となった。しかし、同日夕刻には国籍不明機が占守島を爆撃している。

17日午前5時に、ソ連軍上陸船団は泊地から出航し、途中からは無線封止して前進した。同日午前6時半頃には、海軍飛行連隊の3機が占守島の偵察と爆撃を行った。さらに、同日の日中には第128混成飛行師団所属機が占守島の軍事目標に対して連続爆撃を行った。ロパトカ岬の砲台も、占守島小泊のソ連座礁船残骸などに対して砲撃があった。

他方の日本軍は、8月15日の玉音放送に続き、北海道の第5方面軍から「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛のための戦闘は妨げず」との命令を受けた。17日までには各部隊に伝達されて、戦車の備砲を撤去するなど武装解除の準備を進め、化学兵器の海没処分などは終えていた。日本軍は、17日にカムチャッカ半島沿岸を舟艇多数が移動しているのは発見していたが、終戦後にソ連軍が侵攻する可能性はないとして、重視していなかった。ただし、17日夜半には沿岸拠点の一部に一応の警戒を命じており、竹田浜の前線には独立歩兵第282大隊(大隊長:村上則重少佐)隷下の1個中隊と大隊砲3門、速射砲3門、野砲2門、臼砲4門などが展開していた。
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ソ連軍の上陸

8月18日午前2時半頃(日本時間)、ソ連軍先遣隊の海軍歩兵大隊が占守島竹田浜から上陸した。ソ連軍は武器の過重積載のため接岸できず、泳いでの上陸であった。j1

竹田浜を防衛する独立歩兵第282大隊は直ちにこれを攻撃し、ソ連軍も艦砲射撃を行ったほか、ロパトカ岬からの支援砲撃を開始した。この際、日本軍の攻撃とソ連の艦砲射撃はどちらが先であったのかについて、両軍とも自軍が先であったとしている。先遣隊には軽微な損害はあったが、上陸開始後30分ほどで海岸に上陸し、沿岸陣地は無視して島の奥深く前進した。
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3時30分頃、ソ連軍上陸部隊の主力第一梯団(第138狙撃連隊基幹)が上陸を開始した。日本軍は激しい砲撃を加えて上陸用舟艇13隻撃沈破を報じ、ソ連側によると指揮官艇を含む上陸用舟艇2隻が炎上、複数が損傷する等の損害を受けた。日本軍は航空隊も出撃させたが、対空砲火で艦攻(九七式艦上攻撃機)1機を失い、ソ連側によると特に戦果はなかった(ただし、日本軍側の証言によれば、未帰還となった艦攻1機は、ソ連軍艦艇を攻撃中に対空砲火により被弾し、別のソ連軍艦艇1隻に体当たりして自爆したとされている)。7時ごろに第一梯団の上陸は完了したが、重火器は対戦車砲4門のみで、司令部が海没したために部隊の統制は乱れていた。ソ連軍は艦砲射撃などで日本軍砲台の制圧を試みたが、効果が無かった。第二梯団(第373狙撃連隊基幹)の上陸は、続けて午前7時頃に開始された。日本軍の砲撃のため上陸に手間取り、午前10時ごろになって、ようやく上陸は完了した。依然として火砲の多くは輸送船に残されたままだった。

上陸したソ連軍部隊は、日本軍の激しい抵抗を受けるようになったが、午前4時ごろには四嶺山に接近した。四嶺山をめぐってソ連軍と日本軍の間で激戦が行われた。悪天候のため、ソ連軍は航空機により陸上部隊を直接支援することは出来なかった。
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当初、日本側は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識するに至った。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる戦車第11連隊に対し師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。同時に他の第73旅団隷下部隊に対してもできる限りの兵力を集結して全力でこの敵に当たるように命じ、幌筵島の第74旅団にも船舶工兵の舟艇による占守島への移動を命じた。これを受けて戦車第11連隊は直ちに出撃し、第73旅団でも沼尻に配備されていた独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二少佐)をソ連軍の東翼へ差し向け、その他の隷下部隊を国端崎へ前進しようとした。

戦車第11連隊は、18日午前5時半頃から連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退し、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させた。ソ連軍は対戦車火器(対戦車砲4門のほか対戦車銃約100挺)を結集して激しく抵抗を始め、日本戦車を次々と擱座・撃破したが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を先頭に参戦すると、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退した。戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出した。
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その後、日本側の独歩第283大隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪還した。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい戦闘となった。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側への集結を援護することに成功した。この戦闘の間、ロパトカ岬からソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本軍15cm加農砲1門が応戦して全門の制圧を報じている。
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18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、実際には戦闘は続いた。夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島転進を終えた。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送の攻撃を行ったが、阻止するには至らなかった。 樋口は大本営に現状を報告、大本営はマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼したが、スターリンはこれを黙殺した。
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18日16時は、停戦時間であったがなおもソ連軍上陸部隊(狙撃連隊2個と海軍歩兵大隊)は、日本軍に対して攻撃を仕掛け、艦隊とロパトカ岬からの砲撃も手伝い、幅4km、深さ5~6kmにわたって橋頭堡を確保した。すでに反撃行動を停止していた日本軍は、無用の損害を避けるため後退した。ソ連軍航空部隊は間欠的に夜間爆撃を行った。ソ連軍の重砲・自動車など重量のある貨物の荷降ろしが完了したのは、翌日に日本側沿岸拠点に停戦命令が届き、その砲撃が無くなってからだった。
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停戦交渉

第91師団司令部は、反撃を命じた当初から軍使派遣を考えており、18日15時、日本側は長島厚大尉を軍使として随員2名と護衛兵10名を付け、停戦交渉のため濃霧の中を派遣した。途中から長島大尉が単独で進んだが、ソ連軍に拘束されてしまい、両軍の連絡は確立されなかった。

このため、翌19日朝、山田秀雄大尉らの新たな軍使を派遣し、今度は接触を確認できた。しかし、ソ連側は日本側の最高指揮官の出頭を要求して交渉に応じなかったため、柳岡師団参謀長や歩兵第73旅団長の杉野少将らが3度目の軍使として送られた。会談でソ連側は、停戦のみでなく武装解除などを要求し、日本側軍使は最終的にこれに同意した。報告を受けた堤師団長は、停戦以外の武装解除などについては授権していないとして、柳岡参謀長を再派遣し、交渉を行わせた。

幌筵海峡での海戦

翌20日8時10分、片岡湾を目指すソ連艦隊6隻が幌筵海峡に進入を試みた。ソ連艦隊を発見した日本海軍第51警備隊の幌筵島潮見崎砲台は、高角砲により進路上への警告射撃を行った。これに対してソ連艦隊は一斉に砲撃を開始し、戦闘状態となった。日本側の砲台が応戦し、さらに艦攻2機を離陸させて威嚇飛行を行わせたため、ソ連艦隊は煙幕を展開して退却した。ソ連軍は、敷設艦「オホーツク」が戦死2人、負傷13人の損害を受けるなどした。

ソ連側は、海峡への進入は前日の停戦合意に基づく行為であったと主張し、日本軍の行為を停戦合意を無視した奇襲攻撃だとしている。

停戦と降伏

20日、地上でも戦闘は再開した。ソ連側は、幌筵海峡での日本側の背信があったため、攻撃に移ったとしている。

20日夕、堤師団長は軍使を通じてソ連軍に降伏することを確約したが、その後も、武装解除を遅らせようとした。21日7時、ソ連軍司令官グネチコ少将は代理を通じて、堤師団長に対して、日本軍の降伏・武装解除の最後通牒を渡した。21日21時、日本軍から回答が得られ、ソ連艦上で、堤師団長は日本軍の降伏文書に調印した。23日にはソ連軍の監視の下で武装解除された。
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戦闘結果と戦闘後

ソ連軍は大きな損害を受けながら、日本軍の武装解除にたどりついた。当時のソ連政府機関紙イズベスチヤは「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べた。両軍の損害は、ソ連側の数値によれば、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名である。日本軍は武装解除後分散されたため、死傷者の正確な数をつかめなかった。ただし、日本軍人による推定値として、日本軍の死傷者は600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名程度との数値もある。9月半ばまで両軍の戦死体は放置されたままであった。
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日本軍の被害が少なかった理由はいくつかある。

  • ソ連軍が上陸できる砂浜が狭い竹田浜しかなく、上陸地点が予想され、効果的に攻撃する事ができた。
  • 天候不良のため、ソ連軍は航空兵力による効果的な援護ができなかった。
  • 上陸前の強力な艦砲射撃や爆撃がなく、陣地の破壊が充分ではなかった。
  • 北方方面はほとんど戦場にならなかったため、日本軍の食料・弾薬があり、1日の戦闘には十分であった。

占守島と幌筵島の日本軍を武装解除したソ連軍は、北部北千島の残部にデニーソフ海軍少佐指揮下の第一偵察部隊を派遣し、27日までに捨子古丹島までの日本軍を武装解除した。日本軍の抵抗はなかった。また、南部北千島の松輪島から新知島には、ウォローノフ大佐指揮下の第二偵察部隊を派遣した。ここでも日本軍の抵抗はなく、武装解除は順調に進んだ。このため、27日にウルップ島日本軍の武装解除の任務が新たに加えられ、31日までに任務を完了した。なお、択捉島以南の南千島の武装解除は、樺太を占領した部隊の任務だった。※画像は択捉島の武装解除
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武装解除され捕虜となった日本兵は、しばらくの間、兵舎の整備、越冬準備の薪の収集作業に使役されていたが、10月中旬に目的地も告げられぬままソ連船に乗船させられシベリアへ抑留された。horyo

ハバロフスク事件
かつてシベリアに抑留されていた人が、日本人としての誇りに目覚め、立ち上がった事件です。日本人抑留者は、誇り高い旧関東軍の兵士たちです。こらえ、我慢し、明日を信じ・・・
goo.gl/SoaSZA

民間人

太平洋戦争期には、占守島には常住の民間人は別所二郎蔵氏一家をはじめ数家族のみであったが、夏季にだけ缶詰工場が稼働するため多数の工員が島を訪れていた。1945年8月15日時点では、日魯漁業の缶詰工場が稼動しており、女子工員400 – 500人を含む漁業関係者が在島していた。さらに、会社経営の慰安婦も50名ほど取り残されていた。また、海軍施設の建設を請け負った民間作業員も残っており、民間人の総数は2,000人を超えていた。 ※第二次報效義会に参加。1896年(明治29年)9月から居住の別所一家bessyo

8月15日以降、日魯漁業により、独航船(30トン級)を使って、早急に送還する計画が作られた。しかし、日本軍の許可が取れずに、占守島に留まっていた。戦火が小康状態となった8月19日16時、かねてからの計画通り、26隻の独航船に分乗し、ソ連軍機の爆撃を受けながら濃霧に紛れて脱出し、1隻を除いて北海道に帰還した。(※画像は函館のものでイメージです)1隻は中部千島で難破して女工20人が現地のソ連軍に収容され、1948年(昭和23年)まで抑留された後に帰還した。女子工員以外でも、ソ連軍が日本軍を武装解除している隙に、独航船等を使って脱出したものも多かった。
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最終的には1,600名ほどの民間人が占守島に取り残された。その後、島にはソ連各地から移住してくる者が現れ、彼らと共に、漁業・建設労働に従事した。1947年(昭和22年)9月20日、日本に帰国を希望する日本人民間人全員は島を離れ、樺太・真岡にわたり、その後、北海道に帰還した。ソ連人と結婚した等の理由で島に残留した日本人も極少数存在したが、やがて島を離れた。

逸話

戦後、北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車大隊は、占守島の戦いにおける陸軍戦車第11連隊(通称:士魂部隊)の奮戦と活躍を顕彰し、その精神の伝統を継承する意味で、士魂戦車大隊と自ら称している他、部隊マークとして装備の74式戦車・90式戦車の砲塔側面に「士魂」の二文字を描き、その名を今なお受け継いでいる。
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小名木善行 ねずさんの ひとりごと

占守島 其の一
8月18日 突然ソ連軍がこの島に猛烈な砲撃にて奇襲上陸。第91師団は、この時、武装解除準備中であったが、漁船に女子工員400人名を分乗させ、北海道に向けて出港させます。
goo.gl/qsSQg9

占守島 其の二
1945年8月18日 奇襲したソ連軍は、兵力13,000千人の大部隊でした。想像を絶する激戦。占守島守備隊の、この戦闘があって、日本は北海道を分割されずに済んだのす。
goo.gl/WVhOIh

占守島 其の三
長島厚大尉 軍使としての任務 停戦交渉が纏ったのが21日の正午、堤師団長が、幌筵島沖にやってきたソ連警備艦キーロフに赴いて降伏文書に調印したのが22日13時頃でした。
goo.gl/vwJouq

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