北方領土 南樺太(みなみからふと)

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樺太(からふと)、樺太島(からふととう) ロシア語: Сахалин サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方 、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km 東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400平方kmは世界第22位で21位の北海道(78,073平方km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)

樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、本項では、北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」以南を「南樺太」と表記する。

概要

当ブログは、千島全島、南樺太までの全てを戦前の状態に戻せ!という基本的な主張をしているブログです。四島、二島という妥協した考えに基づき書かれている物ではありませんので、政府見解とも、他の領土問題を扱う団体とも基本理念は違っています。あくまでも、全島返還を国民運動として訴えて行きますので、その点、事前にご了承下さい。

1945年4月5日
ソビエトが日ソ中立条約を破棄通告。日ソ中立条約は規約により締約更新の1年前に通告しなければ自動更新されることになっており、このソビエトの通告により、1946年4月25日に失効することになった。

ポーツマス条約で決められた「ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する」という項目は、一方的に破棄することは出来ない。この場合、取り決めに従えば、日ソ中立条約が失効するのは、1946年4月25日であるため、明らかな条約違反となる。
以上の点から、ポーツマス条約締結時の国境(樺太の北緯50度以南)(千島列島は、その全て)に戻すべきと考えます。

1945年までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語: Сахалин」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。

現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄させられた(しかし、一部の日本人が領有権を主張している)一方で、ロシア(ソビエト連邦)は、日本との間に南樺太に関する条約は結んでおらず、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。従って、国際法上は日本の土地ともロシアの土地とも認められていない(帰属未定地域)とするのが日本政府の立場であるが、日本の他にロシアの領有権を否定する国はない。この問題は北方領土問題である。

ただし、日本政府はロシアの実効支配について「異議を唱える立場にはない」としている。南部のユジノサハリンスクには日本国の総領事館が置かれており、島全体(サハリン州)をその管轄とし、所在地も「ロシア・サハリン州・ユジノサハリンスク」としているが、それ自体は領土問題とは無関係である。

第二次世界大戦における日本本土最後の地上戦が行われた地でもある(樺太の戦い)

名称

「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カ・プ・ヤ・モシ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ、 北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる 。

1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに関する同時代史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる。
正保国絵図

地理

樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km²である(北海道本島の面積は77,981.87km²)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

樺太は石油や天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。LUN-A

地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州、北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

樺太の先住民には、アイヌ、ウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。このうちアイヌに関しては、南樺太に居住し日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている(現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明)

主な山岳

敷香岳(1,375m)36796

鈴谷岳(1,045m)983.1325559205

島嶼

海馬島810.1323116462

海豹島1423024773.833.493760607

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二丈岩23856627

南樺太

南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置されて、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)に、外地から内地へと編入された。人口は1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市(ユジノサハリンスク)であった。現在は、アインス宗谷(船)で、稚内から、宗谷海峡を経て、樺太へ行ける。船で行く場合は、ビザなしで行ける。ただし、3日間のみ。その他に、航空機でも行ける。

遺骨

熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道進攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている。

皇太子殿下の行啓

1925年(大正14年)大日本帝国海軍 戦艦 長門(ながと)皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の樺太行啓(豊原市、真岡町、大泊町)に際し御召艦として指定された。nagato

皇太子殿下樺太行啓記念絵葉書  (こうたいしでんかからふとぎょうけいきねんえはがき)kou1

皇太子殿下樺太行啓記念 官弊大社樺太神社 樺太庁 (こうたいしでんかからふとぎょうけいきねん かんぺいたいしゃからふとじんじゃ からふとちょう) kou2

歴史

氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア帝国の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族がいた。それ以前にはオホーツク文化人(日本書紀に記される粛慎)などが存在していた。

日露競合前

中国、朝鮮の古書(山海経、海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代の斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した場所は樺太との説もある。

  • 640年 – 「流鬼」が唐に入貢。
  • 762年(天平宝字6年)12月1日 – 陸奥国(陸前国)の国府・多賀城に修造された多賀城碑に「去靺鞨(まっかつ)国界三千里(1600km)」と記される。
  • 1217年安藤太が蝦夷沙汰職・蝦夷代官になる。
  • 1264年蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」を朝貢させる。
  • 1284年 – 「骨嵬」が元に反乱を起こす。
  • 1295年 – 日持が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡り、本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。
  • 1297年(永仁5年)5月 – 蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が蝦夷(樺太アイヌ)を率いて黒龍江流域に侵攻しキジ湖付近で元と交戦
  • 1308年 – 「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。
  • 1336年〜1392年(南北朝時代)の具足が樺太から出土している。
  • 1368年 – 元が中国大陸の支配権を失い北走、満洲方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
  • 1411年 – 明は、黒竜江(アムール川)下流域まで進出。衛(役所)を樺太など3箇所に設置し、アイヌ民族と交易する。
  • 1485年樺太アイヌの首長が、蝦夷管領・安東氏の代官武田信広(松前家の祖)に銅雀台を献じ配下となる。
  • 1593年豊臣秀吉は松前慶広に先住民であるアイヌの保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利を認めた 。
  • 1603年松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた。
  • 1635年 – 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。
  • 1644年 – 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。
  • 1679年 – 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
  • 1685年(貞享2年) – 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた(商場(場所)知行制を参照)。
  • 1700年(元禄13年) – 松前藩は樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。
  • 1709年、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江河口対岸に島があると聞き、満州語で、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだ。
  • 1715年(正徳5年) – 幕府に対し、松前藩主は「十州島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
  • 1742年頃 – 樺太アイヌが清商人から略奪をはたらき、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。
  • 1752年(宝暦2年) – ソウヤ場所から樺太場所が分立(場所請負制を参照)。
  • 1790年 – 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。
  • 1798年 – 東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が公議御料(幕府直轄領)となり、場所請負制を通じて東蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成される。
  • 1806年(文化3年) – 日本との通商を拒否されたニコライ・レザノフの部下のロシア海軍士官らが報復のため久春古丹を焼き討ちにする(文化露寇、1806〜1807年)。弁天社の鳥居に真鍮でできた板を取り付け「樺太の占領」「先住民はロシアに服従した」と意味する内容が記された。Rezanov_and_his_ship
  • 1807年(文化4年) – ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島などとともに留多加を襲撃する。警備のため幕府が秋田藩・弘前藩・仙台藩・会津藩などに蝦夷地への出兵を命じる。西蝦夷地(北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料とし、以降樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成されるようになる。
  • 1808年江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。
  • 1809年 – 間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
  • 1821年 – 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。
  • 1848年 – ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。

日露の領土競合時代

  • 1853年
    • ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は、久春古丹にムラヴィヨフ哨所を築き、国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に、日本人の倉庫があったので、この建物を買い取った。
    • ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した。
  • 1854年(嘉永7年)5月18日、クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航し駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去った。
  • 1854年(安政元年) – 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。
  • 1855年(安政2年) – 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が陣屋を築き警固を行った。
  • 1856年(安政3年) – 幕府、樺太東岸の中知床岬以北および西岸のノタサン以北を樺太直捌場所とした。
  • 1857年(安政4年)
    • 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸のオチョポカ(落帆)に漁場を開拓する。
    • 北緯48度の地峡の両端にあたる西岸・クシュンナイ(久春内)と東岸・マーヌイ(真縫)に少数のロシア兵が定住し、日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。
  • 1858年 – 幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警備と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ場所)。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
  • 1859年 – ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、1859年(安政6年)7月26日、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
  • 1862年 (文久2年) – 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、シスカに漁場を開設。
  • 1865年 – 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
  • 1867年 – 樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地とされた。以降、ロシアは軍隊を増派して日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。
  • 1869年頃 – 北蝦夷地を樺太と改称
  • 1870年2月13日 – 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
  • 1871年8月7日 – 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。

全島のロシア領期

  • 1875年5月7日 – 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
  • 1890年 – 作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。現地の日本人島民とも交流。日本への渡航も企てるが失敗。後に報告記「サハリン島」を執筆する。
  • 1905年7月 – 日露戦争末期、日本軍が樺太島に侵攻、全域を占領(樺太の戦い 1905年

南部の日本領期

  • 1905年9月5日 – 日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲される。行政機関として樺太民政署が設置される。
  • 1907年4月1日 – 樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の国境警察隊員。1913年から1939年まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。
  • 1908年3月31日 – 内務省告示、地名を日本語式漢字表記に変更。
  • 1915年6月26日 – 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
  • 1918年 – 共通法(大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)1条2項で樺太を内地含むと規定され、終戦まで基本的に国内法が適用されることとなった。
  • 1920年
    • 5月1日、大正9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)公布。樺太に施行される法律に勅令により若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設けるとされた。
    • シベリア出兵の際尼港事件が発生し、日本は北樺太も保障占領する。
    • 1923年8月2日 – 7日 – 詩人・作家の宮沢賢治が、樺太を訪れる。大泊に上陸し、栄浜に向かう。帰路、豊原に立ち寄る。

      1925年日ソ基本条約締結にともない北樺太から撤兵する。

  • 1937年7月1日 – 樺太市制により、豊原町が市制施行する。
  • 1942年11月1日 – 拓務省の廃止と大東亜省の設置に伴い樺太庁が内務省へ移管される。
  • 1943年4月1日 – 前述の勅令第124号が廃止され、樺太が正式に内地編入される。北海道とともに北海地方に含まれた。
  • 1945年
    • 8月9日 – ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して侵攻を開始する(樺太の戦い (1945年) 本土最後の地上戦の開始。)。ソ連兵は民間人の金品を略奪し、殺傷や強姦にも及んだ。両国間の平和条約が未締結であることもあり、現在までこの件に対する謝罪や賠償は行われていない。
    • 8月20日 – 真岡郵便電信局事件が起こる。
    • 8月22日 – 三船殉難事件が起こる。
    • 8月28日 – 赤軍が樺太全島を占領する(本土最後の地上戦の終結)。民間人の死者は三船殉難を含め3,500-3,700人と推定されるが、正確な人数は不明。

南樺太を巡る領土問題

現在、日本政府は南樺太について「国際法上は所属未定地」としながらも領有権を放棄しており、積極的な領土的主張を行っていない。このような日本政府の立場により、日本国内で発行されている世界地図における南樺太は「白色(どこの国の領土でもない、またはどこの国の領土か未定)」で表示されている。なお、他に「白色」で表示されている地域には南極や千島列島等がある。

この問題について、日本政府は豊原(ユジノサハリンスク)での日本総領事館設置や航空協定等の締結によって、南樺太のロシア連邦への所属を事実上認めているという説がある。しかしながらこの説に対しては、領有を主張しているものの実効的支配を奪われている場所について国民保護のための措置として領事館を置く、ということは成り立つのであるから、総領事館があるということをもって直ちに領有権を追認しているとはいえない。これに類する例としては満州国へのソ連領事館設置があげられる。なお、日本政府自身は領事館の設置と領土の問題とは無関係であり、仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて必要な措置を取るとの見解を示している。

しかし、日本国内の一部には南樺太の返還を要求している人々も存在する。以下は南樺太の領有権に関する様々な主張である。なお、以下に記述する内容はあくまで一例であり、すべての主張を網羅した物ではないし、またその正当性を保証する物でもない。

日本への返還を要求する側の主張

  • 江戸時代以来、日本の行政が部分的とはいえ及んでいたこと
  • 日本固有の少数民族・アイヌ民族の古来からの樺太居住
  • 日露最古の条約日露和親条約 の「これまでの仕来たり」概念(この場合得撫島以北の千島列島領有権はない)以来に遡れば、南樺太における日本権益の法的発生が日露戦争による併合で開始されたといえないこと
  • ポーツマス条約が南樺太に関する最後の有効的条約との定義
  • 日ソ基本条約によりソ連政府が承認した南樺太の日本領有権の有効性(南樺太に対する最後の有効的条約と定義)
  • 日ソ中立条約によりソ連政府が認定した日ソ両国の領土権尊重規定の有効性
  • 当事国を無視し秘密裏になされたヤルタ協定極東領土条項自体の無効性
  • ソ連による日本領土侵攻(日ソ中立条約違反)ポツダム宣言受諾後なお領土拡張意図による継続侵攻を実行したこと
  • ソ連によるポツダム宣言違反(捕虜の強制連行)(領土不拡大原則違反)による権利の毀損性
  • ソビエト連邦による国際法を無視した一方的南樺太編入措置の無効性、領土編入措置と一体化した樺太庁管内住民のソ連による強制送還の違法性
  • サンフランシスコ講和条約を理由とするソ連による南樺太、千島領土主権の取得ができないためソ連がサンフランシスコ講和条約調印を拒否したこと(日本は南樺太・千島を放棄させられたが、ソ連はこの条約に調印していないため、「日本は国境に関して、ロシアに対し従前の関係であり南樺太・千島を放棄していない」または「連合国は日本のロシアに対する南樺太・千島の放棄を認めていない」と定義)
    • 1952年3月20日 米国上院が「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、歯舞諸島、色丹島及びその他の領土、これら権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない」とする決議を行っている。
  • サンフランシスコ平和条約で日本は南樺太の領有権を放棄しているが、最終的な領有権の決定はなされていない。日ロ間における講和条約は未成立であるが、サンフランシスコ平和条約の当事者である日本はロシアに割譲する権限を有しない。

ロシアによる領有を認める側の主張

  • アイヌ人を引き合いに出すのは、正当性の根拠としては弱い。単にアイヌ人を交渉のツールとして使っているに過ぎない。そもそも、アイヌ人という日本人とは別の少数”民族”として認識するなら、かつてアイヌ人の都合を無視して併合した以上は、アイヌ人のための自治区として返還を申し入れるのが道理であるが、そのような主張は全く見られない。
  • ヤルタ協定の有効性、連合国の要請による参戦、占領である
  • サンフランシスコ講和条約による日本の南樺太放棄
    • サンフランシスコ講和条約にソ連が調印しておらずこの効力は及ばないが、「日本が世界に対して宣言を発することには何の関係もない。宣言すること自体は日本の都合だからである。さらに、あまり知られていないが、サンフランシスコ講和条約の原本を読めば、領土については、日露戦争以降に獲得した部分を放棄すること、となっている」との意見も一部にある
  • 北方4島とそれ以外の千島列島、南樺太では、そもそも政府の立場は異なる。
    • 北方領土に関して、「(歯舞、色丹)は、北海道の一部であって、北方4島はサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島の一部ではない」というのが通説となっており、北方4島以外の千島列島および南樺太はこれらと扱いが異なっている。
  • 国外では、この地域はロシアが実効支配中のため、樺太や千島列島が依然として日本領であるという意見が広く同意を得ているとは言い難く、日本以外の多くの国ではロシア領として扱われている。
  • ソ連国内法による南樺太編入措置、ロシア連邦に至る実効支配の既成事実
  • 日本の対ソ無条件降伏
  • 日露戦争講和条約で割譲した領土の武力奪還
  • 武力侵攻による領土掠奪の正当性
    • 日本では、北方四島は日本固有の領土、それ以外の千島列島と南樺太は帰属未定というのが公式見解となっている。

 

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