葛根廟事件

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葛根廟事件(かっこんびょうじけん)

1945年8月14日 満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人9割以上が婦女子)がソ連軍によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。

事件の経過

1945年8月8日 ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島、樺太などに侵攻を開始した。

8月10日と11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。現在の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。

行動隊の当初の目的地は100キロメートル離れたジャライトキだったが、12日からの降雨や興安軍による馬車の略奪などにより計画を変更。興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線)で白城子(現在の吉林省の白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった。護衛・反撃に回るはずの肝心の関東軍部隊は既に南転済みであった。

生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた。ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった。

8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12才の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅から10キロのところにある鎮西駅にたどりついた。女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた。

一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。行動隊の生き残った親を殺された子供たちは、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。約30人が残留孤児となった。また、多くの女性が中国残留婦人となることを余儀なくされた。

国民学校は校長夫婦以下児童270人うち200人が殺害された。

この事件は戦後、第二次世界大戦におけるソ連の戦争犯罪として取り上げられており、暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇のなかでも最大のものである。


娘の首に刀を「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」

昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して旧満州、千島・樺太へと侵攻してきたソ連軍は、日本の民間人に対して殺戮(さつりく)、略奪、レイプの非道極まりない行為を容赦なく繰り返した。

満州の北西部を貫く大興安嶺の山脈と広大な草原。満州国時代、モンゴル(蒙古)人が多いこの地域に、興安総省が設けられ、総省公署(役所)が置かれたのが、「興安街(こうあんがい)」(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)であった。

大島満吉(79)はそこで生き地獄を見た。何度「死」を覚悟したか分からない。当時、国民学校(小学校)4年生。両親と兄、弟、妹の6人家族で、興安街から徒歩で南へ向かって避難する途中だった。

14日正午近く、真夏のギラギラとした陽ざしが照りつけていたのを覚えている。「戦車だっ!」。避難民の隊列の戦闘付近にいた満吉は、後方から叫び声を聞く。くもの子を散らすように逃げ出した避難民の後から、轟音(ごうおん)を響かせて追いかけてくるソ連軍の戦車群が見えた。

「キャー、逃げろ!」。ドーン、ドカーン…日本人の悲鳴をかき消すように戦車砲が炸裂(さくれつ)する。地鳴りのようなキャタピラの音。ダダダっ…機銃や自動小銃の発射音が鳴り止まない。母らと一緒に近くの壕(ごう=自然にできた大きな亀裂)の中へ飛び込んだ満吉は銃を持った人影を見た。

「日本兵が助けにきてくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダっと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスっと銃弾が体に食い込む音…あっという間に30人ぐらいが殺されました」 

終戦間際、満州では南方へ転身していた関東軍の兵力を穴埋めするために、一般の多くの成人男子が「根こそぎ動員」で軍隊に召集されていた。葛根廟事件に遭遇したのはほとんどが、女性や子供、お年寄りである。武器はわずかな成人男子が小銃などを持っていただけ。その“弱者集団”を戦車が虫ケラのように踏みつぶし、砲や自動小銃で撃ち殺したのだ。

絶望した避難民は、青酸カリをあおったり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぐ。壕の中には母親と満吉、6歳の弟と2歳の妹…。覚悟を決めた母親は妹の首にいきなり刀を突き立てた。「ごめんね、母さんもすぐに逝(い)くからね」。鮮血があふれ、妹は声も出さずに死んでいった。泣きながら小さな顔に頬ずりをして、手を合わせた母の姿が忘れられない。

国民学校の校長先生の子供たちがいた。両親はすでに亡い。ひとつ年上の長女から声を掛けられた。「『最後の晩さん』をしましょう、って。荷物の中にあったそうめんや角砂糖を出してきて一緒に食べました。味なんかしなかった。ああこの世の別れなんだ。『死にたくない』って思いましたけれど…」満吉の前に十数人の列ができていた。日本刀を持った在郷軍人に刺し殺してもらうのを順番に待っているのだ。 

そのとき、離ればなれになっていた父親とひとつ上の兄が突然、壕に姿を見せる。「お前たち、生きてたのか! 随分、探したんだぞ。さあ立て、こんなところで死ぬことはない」。父親の大声が響いた。だが、母は動こうとしない。「あたしは行けないよ。(娘が死んだ)ここに一緒に残るんだ」。父親は母の体を引きずるようにして無理やり立たせた。「終わったことは仕方がない。さあ逃げるんだっ」。

大島一家は、葛根廟から新京(現・中国長春)へと逃れ、妹を除く家族5人が奇跡的に助かった。だが、極限の状況の中で自分の子を手に掛けねばならなかった母の悲しみ、苦しみは生涯消えることはない。戦後、満吉は9回、現地を再訪したが、生前の母は決してその地を訪れようとはしなかった。「最後の晩さん」をともにした校長先生の長女はその後、病死。4人兄弟のうち、ひとりだけが、残留孤児になって来日を果たしている。国民学校270人の児童のうち、実に約200人が亡くなった。

同じ興安街の住人、同じ国民学校の児童でありながら、1日の遅れ、いやわずか1時間の差が彼らの生死を分けてしまう。あまりにも残酷な運命を戦後遅くなって知った人もいる。葛根廟事件は、助かった者にも「重い十字架」を背負わせた。 産経ニュース


小名木善行 ねずさんの ひとりごと

葛根廟事件
1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、侵攻を開始。当時の満州は、男はほとんど南方戦線、日本人9割が婦女子。そこにソ連が襲いかかった。歴史に残る大虐殺・・
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