犯罪から見る日本共産党の歴史 其の一

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日本共産党(にほんきょうさんとう 英語: Japanese Communist Party)朝鮮戦争、 南朝鮮側の軍は「韓国軍、米軍、国連軍」により構成。一方、北朝鮮側の軍は「北朝鮮人民軍、中共人民義勇軍、ソ連軍」そして、日本共産党軍が、これに参戦していたのです。様々な重要局面で、影で暗躍する共産党。ここでは、今まで日本共産党が関与した事件を、犯罪と事件という側面から、記録公開して行きます。

管理人:酒から御挨拶
Twitterでの140文字に限界を感じ、ブログに戻ってまいりました(引き続きTwitterではリンク記事中心に活動してまいります)ここでは、難解な記事より核心部分を搔い摘んで記事にしていきます。詳しく知りたい方は文中からのリンクを参照してください。それでは宜しくお願いいたします。

治安維持法の成立
1925年3月「国体を変革しおよび私有財産を否認せんとする」結社・運動を禁止する治安維持法が成立した、これによって共産主義者の疑いをかけられた個人を政府が逮捕・投獄することが可能となった。なお、労働組合など組織の政治活動を規制する治安警察法は既に存在していた。

三・一五事件(さん・いちごじけん)
1928年2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた田中義一内閣は、1928年3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。当時の大日本帝国政府は私有財産制を否定する国際共産主義運動を、国体を脅かすものとして警戒していた。作家、小林多喜二は三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表する(『戦旗』1928年11・12月号、発売禁止)。特別高等警察による拷問の描写が特高の憤激を買った。
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四・一六事件(よんいちろくじけん)
1929年4月16日に行われた日本共産党(第二次共産党)に対する検挙事件のことを指す。1928年に起きた三・一五事件以後、日本共産党は検挙を逃れた渡辺政之輔、鍋山貞親、佐野学、市川正一ら4人の中央常任委員を中心として党の再建を図った。上海やモスクワに中央委員を派遣し、国内でも早々と活動を再開した。しかし、1929年3月18日に東京地方オルガナイザー菊池克己が逮捕され、居宅の家宅捜索により党の組織文書が押収された。そこから党中央直属のオルガナイザー杉本文雄の逮捕に及び、党中央への波及を余儀なくされ、3月21日には中央事務局メンバー砂間一良が、3月28日には中央事務局長格の間庭末吉が検挙された。間庭が党員名簿を持っていたことから、4月16日に共産党員の全国1道3府24県にわたる一斉検挙が行われた。その後も検挙は続けられ、1929年で4942人が治安維持法違反で逮捕された。この検挙により共産党は壊滅的な打撃を受けたが、1930年代のいわゆる「非常時共産党」時代(モスクワ帰りの若手活動家が主導した)に大衆組織が拡大し、党勢を一時回復する。しかし党指導部に潜入したスパイMの挑発的方針により1932年(昭和7年)11月の熱海事件で党幹部が一網打尽にされ、また獄中指導部の佐野学・鍋山貞親の共同声明に始まる組織的転向を通じ多くの党員が組織から離脱、党としては壊滅状態になった。
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スパイM 飯塚 盈延(いいづか みつのぶ)
日本共産党党員で特別高等警察のスパイ。「スパイM」と呼ばれる。1909年尋常小学校に入学。天才と呼ばれた。米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、渡辺政之輔が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、日本共産党(第二次)の派遣により、モスクワの東方勤労者共産大学に留学した。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。そしてスパイとして党に潜入、家屋資金局の責任者となり、「赤色ギャング」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後熱海事件で共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。
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赤色ギャング事件(せきしょくギャングじけん / あかいろギャングじけん)
1932年10月6日に現東京都大田区で発生した日本共産党党員による銀行強盗事件。日本最初の銀行強盗事件であり、当時のアメリカ映画に登場するギャングそのままの犯罪だったため、ギャング事件と呼ばれることになった。当日川崎第百銀行大森支店に拳銃を持った覆面男3人組が裏口から押し入り発砲。行員たちを並ばせ、31700円を奪って裏口から逃走した。警視庁大森警察署は、ただちに緊急配備を敷いたが、犯人検挙に至らず。ちょうどその頃、牛込神楽坂警察署では拳銃の密売人がいることをつき止め、その密売人を検挙。その密売人を追及したところ「以前サイトウという男に拳銃25丁を売り、今度も拳銃6丁と実弾600発を売る予定だった」と自白した。警察はサイトウを上記ギャング事件の関係者と推測し、検挙に成功した。サイトウは日本共産党資金局員で、上記ギャング事件の主犯であった。彼の供述により、残る2名も検挙された。

1932年当時の日本共産党は、プロフィンテルンアジア太平洋支部の太平洋労働組合書記局(上海)の壊滅と党員・支援者の相次ぐ検挙等により、資金難に陥っていた。当時の日本共産党は今日スパイMとして知られる松村(本名は飯塚盈延)が組織の中心になっており、戦前期最大の党組織をつくり上げていた。資金もカンパによって月3万円を集めることができた。党の周辺にいた人々を入党させ、『赤旗』も6、7千部発行するにいたった。しかし、1932年3月、党員や支持者の多かった日本プロレタリア文化連盟(コップ)が手入れを受け、400名にのぼる検挙者を出した。

資金網をやられた党財政の困窮を救うための第1の手段は、金持ちの子弟のシンパに家の金を拐帯逃走させるというものであった。さらに、同年7月から「日本共産党技術部」を「家屋資金局」と名称を変え拡充・再編成し、大塚有章を中心に「戦闘的技術団」(レーニンに因む)をつくり、非合法活動のため、強盗、恐喝、詐欺、美人局、エロ写真など考えられる限りの計画を立てた。武装蜂起のための武器購入に資金が早急に必要だったのである。そこで、資金獲得のために銀行強盗を思い立ち計画が進められた。計画を発案したのは、今泉善一であった。今泉は企画を持っていったのは自分で、やるよりしょうがないだろうという結論を出したのも自分と述べている。

アメリカのギャング犯罪が載っている本を読んで銀行強盗の研究をし、密輸業者からピストルを60丁以上購入し、ゴロツキを使って、不動貯蓄銀行 白山支店を襲撃しようとした。しかし、そのゴロツキに準備資金を持ち逃げされて失敗に終わった。この経験から、党員自らが実行する方針に変更し、再度不動貯蓄銀行を襲おうとしたが成功しなかった。

1932年10月6日、実行犯主導者の大塚は、西代義治、中村隆一らを指揮し、東京大森の川崎第百銀行を襲撃、ピストルで行員を脅して3万円を強奪することに成功する。モーニングを着て、盛装した河上芳子、井上礼子を連れて、車に乗り強奪した金を運んだ大塚は、非常線に2回引っかかったにもかかわらず、無事通過することができた。 河上芳子は、河上肇の次女で大塚のハウスキーパーであり、井上礼子は京都市長であった井上密の次女で、実行犯の西代の恋人であった。

襲撃に使用したピストルは外国からの密輸入のものを2ダースぐらい購入、1ダースくらいが同じスタイルで、あとは混在し、弾は200から300発程であった。購入した銃は分散して隠した。大塚らが奪った金を新橋で受け取り、アジトでMに渡した。逃走用に使った自動車は日本共産党技術部が円タク事業のために購入したものが使われた。

強盗計画の首謀者である今泉の逮捕は事件後3日目で、スパイMの存在により、犯人らの動向は完全に把握されていたことが判明している。大塚をはじめ家屋資金局のメンバーを次々と逮捕。大塚は逮捕されてから、スパイの手で党の秘密が警察に完全に握られていたことを知り、もはやこれ以上苦労をしても無意味であると思い、丁重に扱うことを条件に義兄である河上肇のアジトを教えて逮捕された。
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日本共産党はこの事件の他にも犯罪を計画していたことが、取調べで明らかになった。
 ・中国銀行強盗計画(犯行直前に検挙された)
 ・東京市内資産家強盗計画(女性党員を家政婦として送り込み
 7家での強盗を計画)
 ・刑務所襲撃計画(収監されている党員の奪還のため)

日本共産党スパイ査問事件(にほんきょうさんとうスパイさもんじけん)
1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。さらにその際、無許可で実包を込めた拳銃一丁を携帯したこと、また、別の党員大串雅美にスパイ容疑があるとして、赤坂区内のアジトに12月21日から22日までの間監禁したこともあわせて裁かれている。

12月20日の深夜、荻野増治は警視庁特別高等警察課に出頭、保護された。荻野の供述により、宮本らのアジトが割り出されることとなる。

12月23日、宮本らは小畑・大泉の両名を会合を開くと称して呼び出し、そのまま「査問」にはいった。翌12月24日付の『赤旗』(現『しんぶん赤旗』)には「中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」との党中央の声明が掲載された。警視庁は、この「極刑」という表現に注目、荻野と同様のリンチが両名に加えられ、場合によっては殺害されている可能性があるということで、捜査を開始した。

逸見重雄の供述によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったとされる。まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。小畑の死体はアジトの床下に隠された

一方、宮本らは大泉のハウスキーパーであった熊沢光子に対しても「査問」を行った。熊沢が「本当に大泉がスパイなら一緒に殺してくれ」と言ったところ、宮本らも良心が咎めたのか、直接手を下そうとはしなかった。以後大泉と彼女とは20日間にわたって監禁されることになった。その間、12月26日に宮本は逮捕された。宮本は黙秘し、査問に関する供述は行わなかった。

大泉と熊沢の二人は“自殺”を強要され、1934年1月14日が「執行日」となった。前日の13日最後の晩餐ということで、特別に和菓子が振舞われ、「思想的に行き詰まったので自殺する」旨の“遺書”を書かされた。

ところが、翌1月15日になって警察の気配を感じたため「執行」は延期され、彼らは目黒区にある別のアジトに移された。そのアジトで、大泉は監視人に対して最後の抵抗を試みた。監視人は思わぬ反撃に逆上し大泉に拳銃を突きつけた。

ちょうどその頃、警視庁麻布鳥居坂警察署(現麻布警察署)の巡査が勤務を終え、目黒区の自宅に戻ったところ、近所の住人から「助けてくれえ!」という叫び声を聞いたとの話を聞き、現地に直行したところ、大泉が射殺されようとしている現場を目撃した。巡査は直ちに現場に踏み込み、拳銃を持っていた共産党員の女を逮捕した。大泉の供述により、小畑達夫の遺体が発見された。

事件後、1月17日『赤旗』には「鉄拳で奴等を戦慄せしめよ」という表題の記事が掲載された。「日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。」という内容であった。

1935年(昭和10年)3月4日、この頃、袴田は、宮本などの幹部が次々逮捕される中で、唯一獄外にいた共産党最後の中央委員であったが、本郷での全協との街頭連絡の最中、逮捕される。この逮捕を報道した新聞は最後の大物と称した。
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犯罪者テロ政党日本共産党の正体 その1
簡潔的確な動画がありましたので、ここにご紹介させて頂きます。

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