犯罪から見る日本共産党の歴史 其の二

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生田警察署襲撃事件(いくたけいさつしょしゅうげきじけん)

現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が襲撃された事件である。在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)からなる暴徒によって1945年(昭和20年)12月24日、および翌1946年(昭和21年)1月9日の2回続けて発生した。

第1回目の襲撃事件

1945年12月24日午後9時頃50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。

襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない。

第2回目の襲撃事件

翌年1946年1月9日三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した。

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富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)

1946年(昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。 終戦直後の混乱もあって犯人逮捕・特定には至らず、未解決事件となった。

1945年12月30日、警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。当時の富坂警察署は戦災で焼失しており、小石川国民学校の校舎を間借りしている状態であったため、3人の容疑者は警視庁本部と大塚警察署の留置場にそれぞれ留置されていた。

1946年1月2日、容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。

1946年1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。警視庁は、全力をあげて事件の捜査にあたったが、終戦直後の混乱もあって逮捕には至らなかった。
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七条警察署襲撃事件(しちじょうけいさつしょしゅうげきじけん)

1946年(昭和21年)1月24日に京都府京都市で発生した襲撃事件。

1946年1月18日、京都府七条警察署は、ヤミ米買出しをしていた朝鮮人を物価統制令違反として現行犯逮捕した。連行途中、犯人は隙を見て逃走、在日本朝鮮人連盟の支部に逃げ込んだ。警察は引渡しを要求したが朝連側は拒否した。

1月24日朝鮮人40人が七条警察署に押しかけ、署長に抗議した。また、終戦直後より朝鮮人と対立していた「的屋・博徒」は、「不良在日外国人、七条署に押しかける」の報に接し、急遽500人が警察の応援に駆けつけた。このとき的屋の側には、朝鮮人排除を助けることで警察に恩を売り、その見返りとして闇市で自分たちへの取締を手加減してもらおうという意図があったとされている。そして、署長が朝鮮人に手錠をかけられようとしたとき、署員とともに的屋・博徒も署長室になだれ込み、朝鮮人を実力で排除した。

朝鮮人は反撃のために約700人を集結させ、京都駅前で的屋・博徒と大乱闘になった。警察はMPの出動を要請し、MPが駆けつけたことで漸く沈静化した。この事件で、被差別部落民1人、朝鮮人数人が死亡、負傷者多数にのぼった。

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長崎警察署襲撃事件(ながさきけいさつしょしゅうげきじけん)

1946年(昭和21年)5月13日に長崎県長崎市で発生した、在日朝鮮人・中国人による警察署襲撃事件。長崎市西浜町の長崎自由市場では、物価統制令違反のヤミ物資が公然と販売され、それに並行して暴力行為も頻発していた。長崎県警察部では、これら不法事案の断固取締を決断し、検挙の準備を進めていた。

1946年5月13日午前10時30分280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。

午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている。捜査の結果、中国人7人は進駐軍に引き渡され、朝鮮人60人は検察に送致された。

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プラカード事件(プラカードじけん)

1946年(昭和21年)5月19日食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業社員・松島松太郎が掲げた「------- 曰ク 国体はゴジされたぞ --タラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね -------」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか ------答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカードが不敬罪に問われた事件。「食糧メーデー不敬事件」とも。検察は松島を刑法74条違反で訴追したが、松島側は「ポツダム宣言の受諾によって天皇の神性消滅を受けて不敬罪は消滅した」と主張して争われた。

松島は不敬罪で起訴されたものの、GHQの意向により不敬罪ではなく名誉毀損罪とすることとされ、第一審(東京地方裁判所昭和21年11月2日判決)は不敬罪を認めず、天皇個人に対する名誉毀損のみが認められた。控訴審(東京高等裁判所昭和22年6月28日判決)はあくまで法を順守し、不敬罪を認定した上で、新憲法公布に伴う大赦令により免訴の判決を下した(新憲法下に於ても天皇が日本の元首であると判示)。上告審(最高裁判所昭和23年5月26日大法廷判決)は無罪判決を求める被告の上告を棄却した。多数意見(9裁判官)の理由は、大赦により公訴権が消滅しているので、裁判所はこれ以上の実体審理をなしえない。控訴審の実体審理は違法だが、免訴の結論は正しい、というものである。

本来、この事件では法的に日本国憲法と不敬罪というテーマが問題となるはずであったが、最高裁は免訴判決を下すことによってこの問題についての判断を避けた。本事件での最高裁判決は免訴判決の法的性質という刑事訴訟法上の重要問題についての先例となっている。ただしこの裁判には、当時の日本を統括していたGHQの意向が強く働いていることは無視できない。

事態を心痛した天皇は、5月24日「祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない」旨のラジオ放送を行った。

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富山駅前派出所襲撃事件(とやまえきまえはしゅつじょしゅうげきじけん)

1946年(昭和21年)8月5日に、富山県富山市で発生した事件。

1946年8月5日午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した。

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坂町事件(さかまちじけん)

1946年(昭和21年)9月22日に、新潟県岩船郡保内村(現・村上市)で発生した事件。

終戦直後より在日朝鮮人や在日中国人は、取締権限の不明確さに乗じて公然と日本の法律を無視し、食糧管理法に反するヤミ米の流通・販売などの経済統制違反を繰り返していた。新潟県北部では、在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線坂町駅を中継基地として、ヤミ米を関西方面に出荷していた。当時、1日あたり50俵が坂町駅を経由したといわれている。

1946年9月22日午前0時50分頃村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。

この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。

その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。

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首相官邸デモ事件(しゅしょうかんていデモじけん)

1946年(昭和21年)12月20日に東京都麹町区(現・千代田区)で発生した在日朝鮮人による暴動である。

1946年(昭和21年)11月10日に、在日朝鮮人は在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成し、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を行政機関に要求していた。そして、同年12月20日に皇居前広場で「朝鮮人生活権擁護全国大会」を開催した。

1946年(昭和21年)12月20日の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。

午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃アメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた。

警察は「在日朝鮮人生活権擁護委員会」の委員長ら10人を、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕、身柄を米軍東京憲兵司令部に送致した。
米軍東京憲兵司令部は、彼らを軍事裁判にかけ、12月26日全員有罪の判決を下した。翌年3月8日に国外追放処分となった。
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浜松事件(はままつじけん)

1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。“浜松大紛争”とも呼ばれた。戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。

1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。

4月4日夕方朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は岐阜軍政部にMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。

この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円の見舞金が送られた。同年8月4日静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。

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平事件(たいらじけん)

1949年6月30日に、福島県平市(現在のいわき市平)で発生した公安事件。

1949年4月13日日本共産党福島県石城地区委員会は、平市警察(現在のいわき中央警察署)に、宣伝用の掲示板を設置するために道路一時使用許可申請を出した。平市警察はこれを受理・許可したが、この掲示板は平市街地にあったため、予想外の人だかりができ、交通の障害となったため、許可の取り消しをしたところ、「政治運動に対する弾圧」として共産党が反発し、平市警察と対立するようになった。

1949年6月30日早朝より、共産党員や在日本朝鮮人連盟の朝鮮人を動員し、湯本町や内郷町(両町とも現在のいわき市)の自治体警察に押しかけて、平市警察に応援を出さないことを確約させた後、午後3時30分頃にトラックで平市警察署に押しかけた。

群集はインターナショナルを歌いながら気勢を上げて署内に乱入した。午後6時頃になると署長室だけでも80人が侵入するなど大混乱に陥った。侵入を阻止しようとする署員に対しては殴る蹴るの暴力を加え署の窓ガラスを次々と割っていった。群集の一団は留置場にも侵入し、先程逮捕され留置された者を奪還、逆に警察官を留置場に閉じ込めた。群集は公安委員会の招集と署長の辞職を要求した。この間、署の玄関に赤旗を交差させて掲げ、「人民警察ができた」などと呼号したり、市内各所に検問所を設けて警戒に当たるなど無警察状態に陥った。午後11時頃になって、近県より警察の応援部隊がやってくるという情報が入ったため、ようやく解散した。
国家地方警察の応援の下、平市警察署に捜査本部が設けられ、231人を騒擾罪の容疑で検挙した。そのうち159人が起訴された。一審では騒擾罪が認められなかったが、二審の仙台高等裁判所で逆転有罪となり、1960年最高裁判所は上告を棄却し、有罪が確定した。
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レッドパージ(英: red purge
連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。日本では、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。

1950年5月3日マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)6月6日徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放し、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告及び、9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放(解雇)が行われていった当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。

6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。

公職追放の指令それ自体は1952年サンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。
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人民広場事件(じんみんひろばじけん)

1950年(昭和25年)5月30日日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突した事件。占領軍と大衆行動との最初の衝突事件とされる。なお、「人民広場」とは、戦後に共産党などの国体に反対する勢力「皇居前広場」に対して付けた名称である。

1950年(昭和25年)5月3日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)のダグラス・マッカーサー総司令官は共産主義陣営による日本侵略の恐れを警告し、更に日本共産党がそれに協力していると非難、場合によっては同党の非合法化も検討しているとする趣旨の声明を出した。これは第2回参議院議員通常選挙(
6月4日)を1ヶ月後に控えた時点での発言であり、共産党は強く反発した。

5月30日民主民族戦線東京準備会共産党の指導のもとで皇居前広場(人民広場)で5万人規模(主催者発表)の人民決起大会を開催した。だが、その時に私服警官が集会に紛れ込んでいたのを追及したのを機に警備をしていた占領軍との小競り合いに発展、民主青年団東京都委員長ら8名の労働者学生が逮捕された。

6月1日に共産党はこれは反対派の学生による投石による挑発を受けたものであるとし、集会参加者の逮捕は4日の参議院選挙に対する妨害行為であるとのGHQ批判を行う。翌日、警視庁は都内での集会・デモの禁止措置を発令、更に3日には占領軍の軍事裁判にて逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下された。なお、4日に行われた第2回参議院議員通常選挙では共産党は改選議席である2議席を引き続き確保している。

6月6日、GHQと政府は日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と機関紙『アカハタ』の発行禁止命令を出し、レッドパージが本格化することになる。

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早稲田大学事件(わせだだいがくじけん)

連合国軍占領下の日本において、共産主義勢力のシンパ(支持者)とみなされた公務員や民間人が強制的に退職させられたレッドパージに対して、1950年(昭和25年)10月17日早稲田大学構内で学生が反対した学生運動であり、暴行事件に発展した運動に対して警察が大学当局の要請に応じて出動した事件である。

1950年(昭和25年)10月17日午後1時全日本学生自治会総連合(全学連)の下部組織である東京都学生自治会連合(都学連)に加盟する早稲田大学、東京大学、中央大学、法政大学の学生約500人が、レッドパージに対する反対を掲げ、早稲田大学自治委員会の主催で「平和と大学擁護学生大会」を大隈講堂で開催する予定であった。しかし、大学側が講堂の使用を拒否したため、自治会は校庭で開催し、同時に、大学当局に対して講堂の使用許可を要求したが、これを拒否された。

午後4時ごろ学生らは講堂内に侵入し、大会の開催を宣言した。このうち、約300人の学生が大学本部を不法占拠し、先月9月28日に大学当局の不許可を無視しレッドパージに反対する大会を開催した、自治委員会執行委員らの責任処分について協議していた学部長会議に乱入した。学生らは委員に対する「不当処分」の撤回を求め、島田孝一総長ら20人を軟禁したため、大学側は管轄する戸塚警察署に警察官の出動を要請した。同署は警察官約100人と予備隊(現在の機動隊)三個中隊を大学に出動させた。この警察の出動に対して、大会に出席していた学生のほか、夜学生ら約2000人が抵抗したため、警察は排除活動を中止する事態となった。

午後7時50分予備隊三個中隊および周辺警察署の応援約300人を投入し、排除活動を再開したが、学生らは瓦礫片を投擲するなどの激しい攻撃を行ったため、警察官と学生双方に重軽傷者を出す事態となった。この事件によって、学生143名が公務執行妨害の罪で検挙された。午後8時30分ごろには反対活動が学生らによって自発的に中止されるようになり、午後9時には大学構内での運動が収束した。

第二次世界大戦後、日本をアジアにおける共産化の防波堤とするアメリカの思惑の下、当時の日本の労働争議および全国官公職員労働組合協議会(全官公労)や全日本産業別労働組合会議(産別会議)などの労働組合の指導的立場にあった日本共産党を脅威視するようになった。日本共産党はこの動きに対して、当時の左翼系団体の1つであった全学連との関係を深め、全学連はレッドパージ反対闘争を展開するようになる。本件は、レッドパージ反対闘争の結果生じたものであった。

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コミンフォルムによる指図

1950年1月6日コミンフォルム(共産党国際情報局)の機関誌「恒久平和と人民民主主義のために」に『日本の情勢について』が発表され、野坂参三の平和革命論が批判された。野坂参三はこの批判を受け入れ修正する一方、日本共産党の軍事方針・武装闘争路線をすすめるようになった。また同年1月12日に日本共産党は『「日本の情勢について」に関する所感』を発表する。

1950年5月30日人民広場事件で共産党デモ隊と占領軍が衝突すると、6月6日日本共産党幹部が公職追放となり、同年7月には9人の日本共産党幹部について団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(レッドパージ)。徳田球一らは所感派と称して地下活動を開始し、同1950年10月、所感派指導部発行の『平和と独立』(10月7日号)・『内外評論』(10月12日特別号)誌で「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力をもってたたかえ」を発表、国会は「帝国主義の独裁を民主主義の偽装によって人民の目をゴマかすための金のかかった道具にすぎない」「決死的な人民武装勢力の闘争なしには」人民政府は樹立されないとして武装闘争、暴力革命を訴えた。

2-2
中国共産党による日本共産党への指令

1951年(昭和26年)2月23日第4回全国協議会(四全協)で「軍事方針」が提起され、「敵の軍事基地の拠点の麻痺・粉砕」「軍事基地、軍需生産、輸送における多種多様な抵抗闘争」「意識的な中核自衛隊の結集」「自衛闘争の中からつくりだされる遊撃隊」「警察予備隊に対する工作」「警察に対する工作」などが発表され、地下軍事組織は「Y」と呼ばれた。

当時、朝鮮戦争中であった中国共産党の劉少奇「日本革命は武装革命である。武装闘争を準備せよ」と指揮した。日本共産党は中核自衛隊、山村工作隊といった非合法武装組織を組織火炎瓶の作成パンフレットを作成した。

2-3
クンチェボ会議

1951年8月、スターリンとコミンフォルムは2月の四全協の「分派主義者に関する決議」を支持、宮本顕治らを批判した。モスクワ郊外のスターリン別荘等でのクンチェボ会議において徳田球一、野坂参三、西沢隆二、袴田里見、ゲオルギー・マレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラヴレンチー・ベリヤ、中国共産党の王稼祥らは日本における武装革命方針を作成し、これが五全協において51年綱領として日本共産党から発表された。

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日本共産党の武装革命路線

朝鮮戦争中(1950年~1953年)の1951年(昭和26年)中国共産党の指導により、日本共産党第5回全国協議会で武装闘争(暴力革命)方針を決定した。

1951年(昭和26年)10月16から17日にかけて第5回全国協議会(五全協)が開かれ、「51年綱領」が無修正で採択され、軍事方針も発表された。武装綱領と呼ばれた「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」では、日本民族の独立を第一義とした「民族解放民主革命」を理想とし、「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの」として「中核自衛隊」が唱えられた。
 
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中核自衛隊(ちゅうかくじえいたい)

1951年(昭和26年)に、日本共産党がいわゆる五〇年問題で中央委員会の機能が停止していた時期に、臨時中央指導部なる所感派の影響下で、特に第5回全国協議会における「51年綱領」によって明記された日本共産党の武装革命を実現するための軍事組織の名称。軍事組織はY組織またはYと称された。

軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。

これらの軍事方針が実行に移されるようになるのは1952年(昭和27年)に入ってからで、大小無数の武装衝突事件が起こった。デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて武装警官と渡り合った。中核自衛隊は、陽動目的で作られた組織とされる。

由井誓は「この軍事方針が現実の火炎ビン闘争として実行に移されるのは、52年1月の白鳥事件から8月の横川事件までです。わずか半年余りだった。やがて中核自衛隊は各地で孤立する。多くの隊員が食うや食わずで、栄養失調から結核になったりノイローゼになったりする状態では、相当数の隊員が自然消滅したのは当然ですね。」と述べている。

2-5
山村工作隊(さんそんこうさくたい)

1950年代前半「日本共産党臨時中央指導部」(「所感派」がつくった非正規の集団)の指揮のもとに武装闘争を志向した非公然組織である。毛沢東の中国共産党が農村を拠点としているのにならったものだが、実効性はほとんどなかった。

山村工作隊への参加は所感派路線をとる共産党指導部の指名によるものであったが、一部は旧国際派学生への懲罰的人事として行われたという証言がある。また、メンバーの中には武装闘争方針を絵空事と考え、支持できないままに活動する者もいた。武装路線と大衆路線が混在した山村工作隊と、武力闘争に純化した独立遊撃隊中核自衛隊等のY組織(軍事委員会)とでは、目的や指令系統が違っていたと考えられる。

山村工作隊の方針地域の実情と遊離したもので、住民から工作隊への支持はほとんど得られなかった。例外は派遣された医師班による巡回診療で、多く無医地区であった活動地域で好感を持って受け止められた。封建地主を攻撃する紙芝居などの芸術文化活動は住民に受け入れられることなく、新聞や情宣ビラはそのまま警察に渡された。山村工作隊の活動は全く成果を上げることなく、警察の取り締まりにより消滅した。摘発を逃れたメンバーの一部は、そのまま山中に籠もって自活の道をめざしたが、党からの補給も無く放置されたまま自然消滅した。
奥多摩山村工作隊

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独立遊撃隊(どくりつゆうげきたい)

大衆運動防衛を任務とする地域・経営細胞を基礎につくられた中核自衛隊とは別に、軍事を専門とする組織(人民解放軍の萌芽)として位置付けられた独立遊撃隊が密かに準備された非公然組織であり、隊員は大衆運動には関わらない。火炎瓶、刃物、拳銃、棍棒などの武器の使い方を熟知し、実戦的な訓練を受けた者で構成された。地方軍事委員会が直接指導したとされる。
奥多摩での独立遊撃隊は西多摩出身の宇佐美静治の存在を抜きには語れない。宇佐美逮捕により独立遊撃隊の活動は収束し、わずか半年(52年2月頃~同年8月頃)で解消していった。


福生町で伊藤律の演説を聞き感銘を受けた宇佐美静治は1948年に入党を決意した。28歳であった。アカハタの配達など熱心な党活動が認められ、福生細胞キャップや西多摩地区委員なった。兵役の経験者であったことから、さらに、軍事部門の責任者となった。宇佐美は、福生細胞群の有力細胞からメンバーを募り、数隊の中核自衛隊を組織して大衆運動を警察や暴力団の介入から守る活動を任された。


宇佐美は、52年3月には関東の軍事委員・遊撃隊員を集め奥多摩の川乗山の麓で実弾射撃訓練を行ったほか、高尾の信景山の登山口付近と恩方の稲荷神社で棒突きによる突撃・後退の訓練を実施したという。
また、三多摩地域で大衆運動の防衛を任務とする中核自衛隊員を募り、火炎瓶の使い方を京王線沿線(聖蹟桜ヶ丘など)の山中で教えた。4月6日立川周辺の中核自衛隊員が武蔵野警察署に火炎瓶を投げ込み4人が逮捕された。宇佐美は、この事件の首謀者として指名手配されることとなった。

宇佐美は、立川周辺の売春宿から出てきた米兵を襲撃し、拳銃を奪うなど武器の収集を始めた。旧日本軍の拳銃、日本刀などを隠し持ち、練馬事件で警察官から奪取された拳銃も宇佐美のもとに預けられたという。ダム工事現場から10本のダイナマイトを盗ませたが、使われないままであった。

52年7月28日相模湖畔での米兵襲撃に失敗して、恩方村の拠点に戻ったときに一斉検挙にあい、武蔵野警察火炎瓶事件の首謀者として逮捕され6年の実刑を受けた。これにより、宇佐美の軍事活動への関わりは終わり、西多摩での独立遊撃隊による軍事活動は解消した。

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共産党軍事組織の武器と兵器

1951年10月のガリ版『新しいビタミン療法』では第一次世界大戦でドイツ軍が化学兵器として使用した毒ガスの臭化キシロールの製法が紹介され、また同パンフレット「栄養分析表」では時限爆弾、ラムネ弾、火炎びん、タイヤパンク器、速燃紙の製造法、入手方法などが書かれた。また同時期の「理化学辞典」と題された書物(発行日不明)では、催涙弾、火炎弾、黒色火薬、塩素酸加里爆薬、ピクリンサン爆薬、雷コウ(雷酸水銀)などの製造法が紹介された。

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球根栽培法

1951年10月3日なぜ共産党に軍事組織が必要か」が説明された。
1952年 2月1日「中核自衛隊の組織と戦術」が球根栽培法第二巻第27号に掲載

火炎瓶闘争など日本共産党の武装方針について示した秘密出版物。正しくは『内外評論』という機関誌であるが、『球根栽培法』は、これを擬装するための書名である。ガリ版で複数回発刊された。また、後に新左翼諸セクト内でも『球根栽培法』のコピー版が出回り1974年東アジア反日武装戦線による『腹腹時計』登場まで武装闘争の指針となっていた。

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