キスカ島守備隊の視点で見る撤退作戦

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キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)

1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。

この奇跡の撤退を実際に守備隊側からの視点で記録した体験談がありましたので、ここに記録します。

平和祈念展示資料館 キスカ島撤収作戦 山形県 鈴木吉雄 より転載しております。

キスカ島撤収作戦 鈴木吉雄

―どこへ入隊されましたか―
 昭和十七年九月一日
   現役兵として舞鶴海兵団に入団、海軍四等水兵として初年兵教育受ける。
 昭和十七年十一月一日
   勅令第六百十一号に依り海軍二等兵となる。
 昭和十七年十二月十五日
   海軍一等兵を命ぜられる。同日舞鶴警備隊付となり山砲台勤務となる。
 昭和十八年二月四日
   第三十二防空隊臨時講習員として横須賀砲術学校に派遣を命ぜられる。
 昭和十八年二月十日
   第三十二防空隊付を命ぜらる、
   同日二月十二日横須賀港を出港する第五艦隊に編入となる。

二月十二日横須賀港を出港する「粟田丸」に便乗して太平洋上に出る。いよいよ本土が見えなくなるころ、全員整列の命により上甲板に整列し、「帽子振れ」の合図に帽子を一生懸命振って、これが本土の見納めかと別れを惜しんだ。

―祖国本土を離れられる心境はつらかったと思います。どちらの方面に行かれましたか―

甲板上でそのとき千島列島北方鳴神島(キスカ)に行くことを知らされる。私は艦艇勤務は初めてなので、海が荒れ船酔いが激しく三日くらい飯も食わずに勤務したことは忘れません。この時のつらさはたとえようがありませんでした。それから私は第二小隊の弾薬隊員であり、二十五ミリ四連装機銃四基をもってキスカ島に上陸したのである。上陸の日一日は朝から荷揚げの作業で兵器、食料、弾薬等が次から次へと運ばれ、海岸にはそれらが山と積まれた。幸いに敵機の来襲もなく、翌日の片付け作業等も順調に進み、三日目から全力を挙げて陣地構築に取り掛かった。弾薬倉庫を造る者、食糧の片付けも済み宿舎に帰った。隊長に完了の報告する声もはずみ、朗らかであった。ささやかであったが酒宴を挙げて完成を祝ったのである。

六日目に朝から陣地の細部にわたって点検をされ、各機銃ごとに注意を与えられた。陣地は十メートルの直径の円形で一メートル掘り下げた。掘った土砂を周囲に盛り固め、上空よりの発見を避けるために遠くより掘り取ったツンドラで陣地を覆い、機銃の覆いにも着色し偽装を試みたのである。中央にでんと居座った機銃に頼むぞと心から祈りました。小隊全員が集合し次の訓示を受けた。

「まず陣地構築完了し誠にめでたい。慣れぬ気候風土の中ものともせず寝食を忘れ従事してくれたことを心から感謝する。我々は北海最北端の孤島にあって帝国日本の守りの第一線である。任務を完全に守るには何よりも健康に留意し、即時に応戦できるよう心掛けねばならない。また陣地も完全とは言い難い。我々の兵器は対空戦にあり艦砲射撃の前には無抵抗である。艦砲射撃を受けた場合は防空壕を必要とする。対空戦闘の合間にこれらの施設を完備補修せねばならない御苦労だが頼む。終わり」との訓示であった。

七日目の朝は快晴であった。「今日こそ怨敵ご参なれ、目に物見せてくれん」と心に期し陣地に赴く。部隊の陣地は飛行場(未完成)を造るために方探山に在り、隊員は陣地補強に努力しており、お互いに励ましながら永島専任兵曹と共に巡回する。巡回中突如として防空警報発令さる。指令塔から対空戦闘の信号が高く揚がる。待っていましたとばかり指揮所に駆け込む。程無く電話に就く伝令の声は緊張している。

「一二〇度一二〇キロ敵編隊。一〇〇度一三〇キロ大編隊」と受電する。爆撃機らしい。いよいよ来たか。まずポケットの煙草を取り出しおもむろに一服深々と吸い込む。しばらくして敵機は九〇度、戦爆連合編隊らしい。小隊長は双眼鏡にて九〇度方向を見るも見えず。まず隊長より対空戦闘命令が出された。各分隊は戦闘部署につけの命によりそれぞれの部署に就き、その場に待機する。

敵は八〇度、九〇キロ北上する。七〇度、六〇度、五〇度、四〇キロと次第に近付く。警戒の命を受ける各員の顔を見れば、さすがに緊張している。敵は戦爆連合で、キスカ富士の方向より飛来する。「全員部署に付け、よく狙って撃て。兵は皆初陣であり落ち着いて撃て。どの機銃が赤トンボを撃ち落すか」と隊長よ檄が飛ぶ。

五〇度方向に爆音がかすかに聞こえる。四五度二〇キロと本部よりの伝令の声を聞く。間もなく高角一〇度辺りに敵機らしい影を見る。一機、二機、九機と次第に機数を増す。九機編隊の一群がキスカ富士の方向より一直線に飛来する。更に後方には九機編隊が数編隊続いて飛来する。ごうごうたる爆音が前方上空を覆う。四五度、高角四〇度、一番右飛行機速度三百キロと隊長の声が飛ぶ(後で分かりましたがコンソリーデットB24型爆撃機とのこと)。
戦闘機には注意せるも、機影を見せることなく爆撃機の爆音と同時に不意をついて低空で襲うものと考えられたので「見張り員は周囲をよく見張れ。敵戦闘機に注意するよう」命令がくる。

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しばらく敵機探索する。左前方山頂の陣地より砲撃の開始を聞く。陸軍の和田隊らしい。続いて松ヶ崎の海軍高角砲も火を吐いた各陣地より一斉に射撃開始され、爆音と砲声で全島を揺るがした。我が第三十二防の二十五ミリ機銃ではまだ距離は遠い。少しあせる機銃員を手で制止する。敵機が六〇度付近に近付いた。初めて隊長より「撃ち方始め」の号令が下った。各分隊は一斉に射撃開始する。閃光を引いて敵機の前方に吸い込まれるごとく弾丸を避ける。弾道は更に敵機に付いて行く。パッパッと敵機に当たった弾が炸裂するのが見えるが敵機は悠然として直進する。

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やがて胴体を開いて爆弾投下の用意を始める。六〇キロ爆弾四十個ほど散乱して落下してくる。最初は丸く見え次第に長くなり陣地前方一五〇メートルの近距離に落下、一大爆音と共に爆風が地上を覆う。爆煙により敵機が薄く見え、地上一面、山も他の陣地も視界が消え去った。一隊の爆音が遠のくとまた次の編隊の爆弾が炸裂する。この繰り返しで阿鼻叫喚の生き地獄のような毎日であった。

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以上のような戦闘が続いたが、それに前後して近くの島のアッツ島が攻撃され、約一カ月にわたる戦闘でアッツ島山崎部隊長の「最後の突撃を敢行する」の無電が最後になったと聞いておりました。アッツ島もついに玉砕したのでした。今度はキスカか島に来るなら来いアッツ島の仇を取ってやるぞと時の来るのを待っていたのでした。

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アッツ島が玉砕すると日増しに敵は全航空力をキスカ島に投入してきた。六月になると日は長くなり、夜もほとんど真っ暗にならない。連日連夜爆撃機や戦闘機を見ない時はなかったと言っても過言ではない。六月中ごろより司令部より命令があり、我が小隊は陣地の転換を命ぜられ、北方海岸線に陣地を移動し、敵戦闘機の低空攻撃に対抗したのでした。

七月に入り大本営命令によりキスカ島部隊の撤収するとの情報が入り、部隊、小隊、分隊それぞれ一致した行動をするよう下命された。

―状況不利の中の撤退作戦は大変であったと思いますが、そのご苦労についてはどうでした―

七月初旬「ケ号作戦」が開始される。何日になるか不明であるがいつでも行動できるよう下命された。我々キスカ島部隊全員がキスカ湾に集結し命を受ける。艦隊は第五艦隊がその任に当たり、千島に集結とのこととなり、各人それぞれの兵器の点検、大部分の兵は下山させ艦隊の入港を待った。しかし、その日は入港なく夕刻まで全員元の陣地に復帰する。

この行動は五・六回に及び、ついにキスカ守備隊司令部も意を決してキスカ島撤収作業を取り止めるべく大本営に打電したことを各部隊、分隊の幹部を集めて伝えられた。みんな無駄には死なんと決意を新たにいたしました。それからは艦砲射撃、空襲は毎日のごとく繰り返された。

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七月二十八日、また司令部より「三十日午後二時艦隊が入港する。我々はそれにより撤収する」と抜き打ち的に命令が下り、撤収作戦に万全を期するようにとの下命でした。我々はしばし言葉もなく陣地を固め、一方では撤収準備作業を続け港内の警備を完備したのである。陣地に帰り総員集合しその事を伝達する。みんな狐につままれたような顔をしていた。大本営も我々の生命を大事と考えたらしい。

二十九日朝になり、全員の衣類を洗濯したように干し、幕舎の煙突からは煙が上がっているようにして敵の目を欺く計略なのである。兵器は一カ所に集め爆破の用意をした。その時本部から伝達があり、「明日十二時に艦隊が入港する。予定より早くなったから十一時までに浜に集合せよ」とのこと。各分隊まで手抜かりなきよう伝令を受け、次の命令を待っていた。各陣地はいそがしい、遠方の陸軍部隊などは新しい靴が破れるほど浜と陣地を往復したと聞く。

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三十日は朝から撤収作戦のため集合待機、天は我らに味方してくれたと思う。上空は朝から霧に覆われていた。幸いキスカ湾内だけはよく晴れていた。天の助けである。十二時三十分ころ外港の霧を裂いて黒い物が現れた何だろうと見ていたら「阿武隈」(巡洋艦)の前甲板であった。浜では津波のようなどよめきが起こり、次々と艦船が港内に姿を現し、整然として定められた錨地に投錨するのが見えた。間もなく不用物に点火命令を受信。一斉に不用兵器に点火を確認し、自動車に乗り一路浜を目指して急ぐ。(注、撤収作業は非常に困難なる作業であり、かつ敵の包囲の中でキスカ島撤収ほど完全無事に成されたことは世界戦史にまだない)

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兵器の破壊は敵に戦利品として摂取されるのを恥じたのであるが、撤収が完全に行わない場合には、完全な物として再び我らの手中に在るごとくせねばならない。更に撤収が完全になされても脱出は一番苦労であり、敵に気付かれてはならない。そのために我らが離島してから十時間後に爆発する特別な仕掛けをした。これは度々実験したことで完全に破壊されたものと信じている。十時間敵が我らの脱出を知らなければ敵機の行動半径外に逃れることができるためである。各陣地が十時間後に爆発を起こし、変だと気付いた敵がいくら島の周りを探索しても我らは安全圏に脱出できるので、十時間と言う時間が必要になったわけである。

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部隊が港に着いたときは、もう大部分の部隊は定められた艦に乗っていた。隊長は最後の艇(大発)で「阿武隈」に乗る。艦は直ちに錨を揚げ出発した。出発後は速力を増し、港外に出たのは一時十分ころと思います。我々は五千五百名のキスカ島兵員を一時間たらずで収容を完了した。船舶側も千島海峡で日夜訓練に努めたたまものである。また大発は全部キングストン弁を開いて沈めた。艦の舷側はどこからでも乗艦できるよう竹の縄梯子であった。全員収容されてからこの縄梯子は切り捨てられた。

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港外に出てから艦は全速で北上し、敵機の行動半径を過ぎ、西に転じ、アッツ島を避け、南下して八月一日朝十時北千島の占守島に投錨し我らは無事上陸した。以上は「ケ号作戦(キスカ島作戦)」の大略である。

昭和十八年八月一日、キスカ島を引き揚げて北千島列島最北端の占守島に上陸する。占守島では我が防空隊の後発隊は幕舎を命ぜられる。内地に帰れると思ったのが夢となる。十八年十一月一日付け海軍上等兵となる。十月十六日付けで摺鉢派遣隊付きを命ぜられ幌筵島摺鉢湾近くの飛行場警備に就く。幌筵島摺鉢には日魯漁業の缶詰工場があり、盛んに操業していた。

十八年八月より探照灯員となり、そこには一五〇ミリ探照灯が二灯ありました。九月ころより米軍の爆撃がだんだん激しくなり、とくに夜間に大編隊が来るようになりました。陸軍の戦闘機と空中戦があり二機撃墜の戦闘などもありました。我ら照空隊も敵機を照射すること度々でした。八九式十二・七連装高角砲も一斉に射撃しましたが、敵機はこれをものともせず爆弾を投下して帰る。この爆撃機はB-17と言うことでした。飛行場には海軍機が五機くらいいたように思います。海岸近くの陣地は海軍、それより山側は陸軍の陣地でした。どうしても爆撃は山近くなので陸軍の陣地が直撃弾でやられたこともありました。日魯漁業の工場を爆撃で火災になったこともありました。

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冬になると吹雪が多く、粉雪のため視界がきかず一五〇メートルくらいの陣地にも夜などは行くことができないことも度々でした。仕方なく交通路は地下に掘ったのです。千島最北端の冬はことのほか寒く「敵前の寒さかな」で仕方なしでした。

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昭和十九年五月一日、水兵長を命ぜられ、十月まで探照灯員として勤務する。千島は魚が豊富なので不足したのは生野菜でした。ほとんど乾燥野菜なのでビタミン剤が配布になりました。千島には「這い松」、奥に入れば木もありました。燃料もなくなるので炭焼き作業などもやりました。

十九年の冬、大艦砲射撃をくらいました。夜間でもあり、我が高射砲も応戦しましたが、とてもかなわず射撃を止め、敵の上陸に備えて武装して防空壕で待機しました。夜が明けてから見ると艦砲射撃の弾のあとは数えることもできないくらい撃たれていました。艦砲射撃は爆弾より恐ろしいと思いました。

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二十年の四月一日、館山砲術学校普通科測的術練習生卒業と見なされ当校特技章を付与されました。五月初めより本土決戦のため徹夜で作業続行して高射砲を解体し「浮島丸」に積み込み、先発隊として「浮島丸」に便乗、五月十日摺鉢港を出港して五月十五日大湊港に到着したわけです。すぐ荷揚げ作業をやり大湊大畑方面の陣地構築など本土決戦準備に従軍し、八月十五日終戦となる。その後、海軍保安隊として十月三十一日大湊海軍保安隊を除隊する。

 

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