犯罪から見る日本共産党の歴史 其の四

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白鳥事件(しらとりじけん)

1952年(昭和27年)1月21日に発生した殺人事件である。日本共産党や自由法曹団は冤罪事件であると主張し、1965年(昭和40年)に再審請求して最高裁判所へ特別抗告するも1975年(昭和50年)棄却されている。

1952年(昭和27年)1月21日午後7時30分頃、札幌市警察白鳥一雄警部が自転車で帰宅途上、北海道札幌市南6条西16丁目路上で併走する自転車に乗る犯人から射殺され、犯人は逃走している。白鳥は、札幌市警警備課課長として当時半ば非合法に活動していた日本共産党対策に従事していたことから、捜査当局は共産党関係者を中心に捜査している。事件発生2日後に党北海道地方委員会が「党との関係は何とも言えない。この事件は愛国者の英雄的行為」関与を匂わせる旨の声明を発し、党員が市内で「見よ、天誅遂に下る!」のビラを配布していたことから党関係者へ疑惑が抱かれるも、事件直後に村上由党北海道地方委員が「党と白鳥事件は無関係」と関与を否定する声明を発している。

事件発生から4か月後党員の通報により白鳥殺害に関与しているとの情報が得られて村上国治党札幌地区委員らが逮捕され、共犯として逮捕されたTが「1月3日から1月4日頃に村上ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述するも、村上らの逮捕後も犯行に用いられたとされるピストルは発見されず、事件発生2年前に幌見峠で射撃訓練した際のピストル銃弾のみが唯一の物証として裁判に提出されている。直接の実行犯は当時日本と国交が無い中華人民共和国へ不法出国して逃亡している。

検察側は村上を殺人罪の共謀共同正犯で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張している。第1審札幌地裁は共同謀議を認定し、村上を無期懲役、共犯1人を懲役5年・執行猶予5年と判決している。途中から公判分離されて共同謀議を自供した共犯Tは、1957年(昭和32年)懲役3年・執行猶予3年と判決されて確定している。控訴審札幌高裁は村上を懲役20年に減刑し、共犯1人は控訴を棄却している。1963年(昭和38年)、最高裁判所が上告を棄却して判決が確定している。

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田口事件(たぐちじけん)

長野県南佐久郡田口村(現佐久市)において1952年(昭和27年)2月3日日本共産党員が警官に暴行し、拳銃、警察手帳を奪った事件。田口村事件とも呼ばれる。

田口村は当時、日本共産党員が郡内で最多であり、事件の数日前から村民とは思えない者の出入りが目立ったため、警官が警戒していた。事件は深夜近くに発生した。村内清川区を巡回する2名の警官が数人の通行人を職務尋問しようとしたところ、警官は鈍器のようなもので、いきなり暴行を加えられ、全治1か月程度の怪我を負った。そして所持していた実弾6発の入った拳銃と警察手帳を強奪された。また同地籍で別の警官2名も暴行を加えられ、負傷した。

県警は重大事件とし、南佐久署内に特別捜査本部を設け、22名の警官を派遣。また周辺警察署からも警官を集め協力させた。事件直後に日本共産党員8名を逮捕した(うち1名は嫌疑不十分で釈放された)。

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木造地区警察署襲撃事件(きづくりちくけいさつしょしゅうげきじけん)

1952年(昭和27年)2月21日から2月23日にかけて、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)で発生した在日朝鮮人による事件。当時、在日朝鮮人は祖国防衛隊を組織し、所感派が主導権を握る日本共産党の指令の下全国各地で暴動を起こしていた。

1952年2月21日、国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している(後に警棒は木造駅近くに捨てられているのが発見された)。

 当時の日本共産党は、在日朝鮮人の入党を認めており、党員も数多くいた。現在の日本共産党は、党員資格を18歳以上の日本国民に限っている。(日本共産党規約第4条)

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辰野事件(たつのじけん)

1952年に長野県上伊那地域で発生した長野県警察による冤罪事件。

同年4月29日の深夜から翌早朝にかけて、辰野警察署本署及び辰野駅前派出所(辰野町)、伊那警察署東箕輪村駐在所(箕輪町)及び美和村非持駐在所、伊那税務署(伊那市)が、何者かによってダイナマイトや火炎瓶で襲撃される事件が起きた。警察は容疑者として日本共産党員13名を逮捕したが、全員が容疑を否認。党も「日本共産党に対する攻撃であり、でっちあげである」と抗議の声明を発表した。

1960年長野地方裁判所飯田支部は全員を有罪としたが、1972年東京高等裁判所で証拠不十分として無罪判決を得、検察側も上告を断念した。

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血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)

1952年(昭和27年)5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件である。事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている。戦後の学生運動で初の死者を出した。

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。本来のデモ隊の解散予定であった日比谷公園から北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊がそのまま皇居前広場に乱入するなど暴徒化して混乱は午後5時半ごろまで続いた。
 この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じた。
 乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めた。応援の予備隊が到着してその総数は約2,500名となったがデモ隊は数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなった。警察部隊は催涙弾を使用したが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めた。
 この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石した。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させた。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となった。デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及んだ。
 当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。出動した警視庁予備隊は後の機動隊であり、警察予備隊とは異なる。

デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したため長期化し、1970年(昭和45年)1月28日の東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、1972年(昭和47年)11月21日の東京高裁(荒川正三郎裁判長)による控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄、16名に暴力行為等の有罪判決を受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した。

 なお、同時期に白鳥事件、吹田事件、大須事件、曙事件や中核自衛隊・山村工作隊による事件など起こった。一方で、公安警察による菅生事件も起きた。事件発生の5ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失った。

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広島地裁被疑者奪回事件(ひろしまちさいひぎしゃだっかいじけん)

1952年5月13日午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。
 勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。
 広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった。

枚方事件(ひらかたじけん)

1952年6月24日から6月25日にかけて、大阪府枚方市で発生した公安事件。第二次世界大戦後、陸軍工廠枚方製造所は閉鎖され、その大半が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の賠償物件となった。大蔵省近畿財務局が管理していたが、荒れるにまかせ、タヌキが出没する有様であった。
 
1952年4月28日にGHQによる占領が終わり、小松製作所に9億4285万円で払い下げられた。小松製作所は既にアメリカ軍より大量の砲弾を受注しており、正式な払い下げに先だって工廠の使用許可を得て、砲弾の生産を開始した。
 そのため、日本共産党や北朝鮮系の在日朝鮮人が反対運動を起こしていた。

1952年6月24日未明実行犯が陸軍工廠枚方製造所に侵入、第四搾出工場にあった水圧ポンプに時限爆弾を取り付けて爆破させた。
 この日の午後8時頃より、ひらかたパーク裏の鷹塚山(通称「一本松の丘」)で「朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭」が開催され、約100人が集まった。前夜祭終了後、小松製作所の関係者と目された人物の自宅を襲撃することになり、竹槍や棍棒を作るために付近の山に入り竹や木を伐採した。
 
6月25日午前2時頃に被害者の自宅に到着、玄関に火炎瓶を投げ込み家屋の一部を焼いた。そして車庫にも火炎瓶を投げ入れて車庫や乗用車の一部を焼いた後、逃走した。
 枚方市警察は被害者の通報を聞いて、直ちに警察官12人を現場に急行させた。警察は周辺の山林を捜索し12人を検挙、最終的には98人を検挙した。大阪地方検察庁は、事件の関係者65人を放火未遂、公務執行妨害罪、爆発物取締罰則違反で起訴した。裁判の結果、6人については無罪としたが、それ以外については全員有罪となり確定した。

 自宅を襲撃された人物は、大阪市都島区に本社を置く運送会社の社長で、枚方工廠払い下げの受け皿となるべき会社を設立しようとしていたが、設立準備中の会社は払い下げの対象外であったため断念せざるをえなかった。
 ところが、この人物の姓が「小松」であったため、払い下げが内定した小松製作所の関係者と目され、この事件の標的にされてしまった。

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曙事件(あけぼのじけん)

1952年7月30日に、山梨県南巨摩郡曙村(現身延町)で発生したテロ事件。山梨県南巨摩郡曙村は平家の落人伝説がある貧しい村であったが、一方で資産家のSが力を奮い、農地改革以降も山林地主として影響力を保持していた。日本共産党所感派は、この村に山村工作隊を派遣。「山林地主からの山林の解放」を掲げ、「Sを人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と主張してオルグ活動を展開した。

1952年7月30日夜10人の山村工作隊が竹槍や棍棒を持ってS宅に押し入り、就寝中のS及び妻や家政婦・小学生3人に重傷を負わせ家財道具を破壊した後、現金4,860円と籾1俵を強奪して逃走した。この事件の最中、党員一人が事故死し、実行者も全員逮捕された。

1964年、最高裁判所は被告全員に懲役2年から8年の有罪判決を下した。日本共産党は、この事件について菅生事件と同様の公安警察による謀略事件としており、事件発生50周年を記念したパンフレットでも同様に主張している。一方で兵本達吉など共産党に批判的な立場からは、山村工作隊に代表される武装闘争路線が招いた政治テロの一つと主張している。

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島津三条工場事件(しまづさんじょうこうじょうじけん)

1952年6月10日に京都府京都市中京区で発生した暴動事件。

1952年6月10日午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
 すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した。

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吹田事件(すいたじけん)

1952年6月24日(火曜日)から6月25日(水曜日)にかけて、大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した吹田騒擾事件と、その裁判で起きた事件(吹田黙祷事件)の両方を指して吹田事件という。ただし吹田騒擾事件のみを指して吹田事件とする場合もあり、定まっていない。同年に起こった血のメーデー事件、大須事件と並んで三大騒擾事件の一つとされている。

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。アメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の日本での訓練を要請した。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始した。吹田事件の舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺にはアメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していた。また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた貨物列車が編成された。北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で反米・反戦運動を起こしていた。当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調していた。

1952年6月24日夕方、大阪府豊中市にある大阪大学豊中キャンパスで「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催された。学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加した。集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択された。集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになった。集会参加者は西国街道経由で箕面へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、服部駅(現在の服部天神駅)から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動した。人数は山越部隊の方が多かった。
 山越部隊は警察予備隊豊中通信所の横を通り、午前2時ごろ三島郡豊川村に到着した。ここで山越部隊は「ファシスト打倒」と称して笹川良一宅に投石したり、棒きれで玄関の扉を損傷させている。笹川良一本人は留守で、けが人はなかった。休憩後、山越部隊は南下して国鉄労働組合吹田支部の中野新太郎邸に立ち寄り、庭で竹槍を振り回したり障子を破ったりしたが、けが人はなかった。
 一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入ったが、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要した。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになった。電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、6月25日午前5時ごろ三島郡山田村(現吹田市山田南)で山越部隊との合流を果たした。この間、警察は電車部隊が梅田駅に向かうと予想し、梅田で警官隊を待機させていたが、電車部隊が服部駅で下車したため行方を見失い、山越部隊についても電車部隊の対応をしている間に見失っていた。
 合流後、デモ隊は南下し須佐之男命神社(摂津市千里丘)に到着した。神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていたが、警察指揮者との交渉をデモ隊が受け入れなかったため、警察隊は警備線を解き、デモ隊に道を譲った。大阪地方検察庁は、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破したと主張して騒擾罪を適用した。しかし証拠写真や警察指揮者の証言からデモ隊が暴徒化した事実がないことが明らかになったとされた。このため後の裁判で被告人全員が無罪となることになった。
 須佐之男命神社から南下したデモ隊は、午前6時ごろ国鉄東海道本線岸辺駅経由で吹田操車場に入った。デモ隊は操車場内で「戦争反対」「軍用臨時列車を止めろ」などのシュプレヒコールをあげながらデモを行ったが、実際には軍用列車は事前に移動させられていた。吹田操車場から出たデモ隊は吹田駅に向かった。
 なおこれらデモ隊の行動について、「うさぎ狩りのようでした」などという証言もなされたものの、検察は「暴徒そのものだ」と形容した。実際にデモ隊は暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク(英語版)陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。また午前7時ごろ茨木市警察のウィーポン車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などした。
 その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、『うまいこといきましたな』と駅長とも話していた」と証言している。解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊はこれと衝突した。これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された(被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され「行方不明」となったため最終的に109人)。
 なおこの際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負った。列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市も承認している。なお検察は「拳銃発射は暴徒のうちにもこれを行ったものがあり、これら負傷のすべてが警察官の発射した」ものとは言い難いと主張していたが、証拠がなく現場にいた警察官、第三者証人だれも証言していないため、根拠が乏しいとされ裁判で認められなかった。なお検察は警察隊が撃った弾によって重傷を負わせたデモ参加者4人を起訴していない。

1963年6月22日の第一審判決では騒擾罪の成立を認めなかった。検察は111人の被告人のうち47人を起訴したが、1968年7月25日の第二審判決でも一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となったが、騒擾罪の無罪は変わらなかった。

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相馬ヶ原駐屯地事件(そうまがはらちゅうとんちじけん)

GHQは書簡を発し、日本政府に警察予備隊の創設を指示した。1950年8月10日、日本政府はポツダム政令の「警察予備隊令」(昭和25年[1950年]政令第260号)を制定し、警察予備隊が発足した。榛名山麓の相馬ヶ原には警察予備隊駐屯地(後の陸上自衛隊相馬原駐屯地)が置かれることになった。

1952年6月より、北朝鮮系の祖国防衛隊が暗躍し始め、「朝鮮出兵反対」のアジビラを県内各地に配付したり、駐屯地の内偵工作が行われるようになった。
 1952年7月12日在日朝鮮人約10人が竹槍をもって相馬ヶ原方面に向かったという情報が入ったため、直ちに出動・職務質問を行い、火炎瓶や硫酸を不法所持していたため、これらを押収し参加者を逮捕した。
 その後、祖国防衛隊の軍事工作班が駐屯地の爆破を計画しているという情報が入り、祖国防衛隊がアジトとしている山小屋が判明したため、7月29日早朝アジトを急襲、5人を逮捕した。これらの逮捕者は、爆発物取締罰則違反容疑7月31日送検された。

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大須事件(おおすじけん)

1952年(昭和27年)7月に愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件。北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、1952年7月6日(日曜日)に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。


1952年7月7日(月曜日)当日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。

午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生している。

この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが判明した。名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴した。裁判は当初の予想よりも長期化したが、1978年9月4日、最高裁判所第二小法廷は上告を棄却し、有罪が確定した。

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横川元代議士襲撃事件(よこかわもとだいぎししゅうげきじけん)

1952年8月7日に、埼玉県比企郡大河村(現小川町)で発生したテロ事件。

1952年8月7日日本共産党の独立遊撃隊(中核自衛隊から選抜された精鋭部隊)13人が、元代議士で武蔵野銀行取締役の横川重次宅を襲った。
 横川重次本人に「世直し状」なる脅迫状を突きつけて、体中を斬りつけて重傷を負わせた。また別の一団が家政婦や横川の次男を縛って金目の物を探したが、肝心の金庫が開かず、そのまま逃走した。

その後の捜査で、犯行に至る経緯を記した手記や文書が発見され、日本共産党の計画的犯行であることが判明した。
 犯人の1人は「横川は元代議士で、広大な山林を所有している封建地主であり、人民の敵であるから殺して金を奪い、その金は日共の活動資金にする」予定であったと供述した。
 第一審の浦和地裁では、検察側が遊撃隊長に無期懲役、被告全員に有罪を求刑した。判決では、隊長に懲役二十年など、(火炎瓶投擲に関して無罪となったため)執行猶予がついた一部の判決を除き大半の被告が実刑となった。また、裁判の判決で、この事件が日本共産党関係の暴力的活動であったことと、28年4月革命説実現のための資金集め目的の強盗であったことを認定している。 なお、控訴審の東京高裁では隊長に懲役15年などの減刑判決が下り、最高裁の棄却により確定した。

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五所川原税務署襲撃事件(ごしょがわらぜいむしょしょしゅうげきじけん)

1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件(密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点など)を押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。
 その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠する事態にまで至っている。

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別府市警察署事件(べっぷしけいさつしょじけん)

1953年2月19日民戦別府支部員の在日朝鮮人男性が泥酔して、通行中の女性の羽織を強奪したり通行人に因縁を付けていたため、別府市警察は男性を逮捕して署内へ留置した。男性は2月21日午前11時になって容態が急変し、死亡した。
 死亡直後から、朝鮮人たちが続々と警察署に集結し、男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けた一方的なデマを流し始めた。彼らは署内の道場に居座って一夜を明かした。
 2月22日になると、「ファッショ別府市警の撲殺事件の真相」「人殺し別府市警に全市民は抗議せよ」と題するビラを市内各地に配付し、警察署前では民戦や日本共産党の活動家らが終日に渡って抗議活動を行った。
 2月23日は、署内で検視が実施された。民戦側は検視への立会いを要求、警察もこれに同意したため、検視そのものは平穏に終了した。
 2月24日に葬儀が執り行われ、約300人が参列した。葬儀後、棺を先頭に別府市街をデモ行進して警察署に突入しようとしたため、警官隊と衝突した。男性は逮捕前に駐留軍警備員に因縁を付けて背負い投げの返り討ちにあっていた。司法解剖では、「死因は通行人に頭突きし続けたことによる脳出血及び吸引性窒息」という鑑定結果が出た。
 自業自得による事故死と判定されたため、駐留軍警備員は正当防衛と判定され、署員は不起訴となった。民事訴訟も民戦側の敗訴に終わった。

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京都旭丘中学事件(きょうとあさひがおかちゅうがくじけん)

1953年4月29日から1954年6月1日にかけて発生した、日本共産党日教組教員による赤化教育を支持する進歩派とそれに反対する保守派の保護者との対立から、生徒を巻き込んだ学校分裂事件。

旭丘中学ではかねてより日本共産党日教組教員による赤化教育がなされており、それを平和教育か偏向教育と取るかで対立がなされていた。これは日本共産党の「平和と独立と民主主義のために闘う青少年を育成しなければならない」という指示、すなわち「子供を革命戦士に仕立て上げることで文化革命、教育革命、政治革命を目指す」を実践していたものである。具体的には校内で革命歌や赤旗を強要し、全関西平和まつりに生徒を引率するなどが行われていた。1953年12月8日朝日新聞はこれを「政治的色彩はない」と論じた12月13日読売新聞では旭丘中学の教育について非難の記事を掲載している。
 

1954年2月11日京都市教育委員会は生徒の指導方法・教員の組合活動の制限など7項目にわたる勧告書を手交し、3月24日赤化教育の指導的立場であった北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論の異動を内示し3教員を他校に転任させることで事態を収拾しようとした。これに対して3教員が転任命令を拒否したことから5月5日に3教員の懲戒免職を決定した。この懲戒免職を受け3教員の支持派は北畑紀一郎校長を5月6日の正午から5月7日の朝5時まで団交(事実上の監禁)し、7日の生徒大会では校長辞職決議がなされ辞表を強制的に執筆させたが、京都市教育委員会はこれを強要されたものとし受理せず5月10日より旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。

この通知を不服とし5月10日より進歩派の教員・父母と日教組下部組織の京都府教職員組合が学校を封鎖して自主管理授業を強行することになり校舎には闘争本部が設けられ赤旗が林立する。これに対して保守派の父母は市教委とともに5月11日から岡崎の京都勧業館を用いた補習授業を行い生徒は2分される。分裂した5月11日生徒数は旭丘管理授業449名に対し岡崎補習授業は818名であった。分裂授業の始まった5月11日、公安調査庁は自主管理授業を日本共産党の政禁法を骨抜きにする新戦術と発表している。

更に高山義三京都市長や大達茂雄文部大臣が学校封鎖を「暴力革命」と非難して、当時の政治課題とされていた「教育2法案」の早期成立を訴えたために事態は益々混乱した。事態の長期化につれて子供を争いを材料にしているとして双方に対する世論の批判も高まり、京都府教育委員会などが調停に入り、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わずに他校に転任させて校長以下全教員を入れ替えることを条件に双方が妥協し、6月1日に授業が再開された。これは3教員の懲戒免職の撤回とその他45名の教員による授業再開を要求していた進歩派の実質的敗北である。この妥協案を飲まざるを得ない背景には、5月13日左右両社会党ならびに日教組本部も生徒を闘争へ巻き込んだことへの批判声明を出し、支持母体が日本共産党だけとなり京教組と旭丘中学教員が孤立したことが大きい。 なお、懲戒免職とされた3名はその後処分の取消を求める訴訟を起こしたが、1974年に最高裁判所で原告敗訴が確定した。

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日本共産党特殊財政部(にほんきょうさんとうとくしゅざいせいぶ)

日本共産党内部の所感派(1950年代に非合法的な地下活動をすすめていた)が設けたとされる資金獲得部署のことである。別名「トラック部隊」。日本共産党の戦後史に詳しい増山太助の著書によれば、「トラック部隊」の名称の由来は、佐世保鎮守府関連の施設にトラックで乗り付けて、戦後不要になった大量の軍需品を運び出して売りさばく窃盗団だという。

「トラック部隊」なる名称が新聞記事として残っている代表的な動きとして、1957年8月22日一斉捜索・摘発があげられる。記事は、捜索が行われる当日の朝刊に予告記事として掲載された。当時の国会でも「トラック部隊事件」については、多少触れられている。しかし、自由民主党もこの問題について積極的に議論した形跡は見当たらず、警備公安当局も、現在捜査中と国会に報告したのみで終わっている。
 

最初に「トラック部隊事件」が国会に報告されたのは、1957年11月14日の参議院地方行政委員会で、当時の山口喜雄警察庁警備部長が、警察行政の報告のなかで、「いわゆる日本共産党関係のトラック部隊の検挙というものが現在行われておる」「この事件は、中小企業から資金を収奪をしてそれを党の活動に回したのではないかという容疑をもって、現在捜査中」と報告した。しかし、それについての質疑は与党側からも行われなかった。
 

また、1958年4月25日の衆議院法務委員会で日本共産党の志賀義雄「トラック部隊事件」の他に「官庁スパイ事件」、「人民艦隊事件」などをあげて、「選挙前にこういうばかげた検挙をやって共産党にけちをつける」と批判している。
 さらに、後に黒い霧事件で失脚した自由民主党の田中彰治代議士が1960年2月5日の第34回国会の衆議院決算委員会で、「あるガス会社」に関して、共産党のトラック部隊と関係があるかのような発言をしているが、具体的な資料などの提示もなく政府側とのその後の質疑でも継続したやり取りに至っていない。

 「トラック部隊」の行った犯罪行為、不法行為、警察の検挙人数・件数がネット上に掲載され、初代隊長が映画プロデューサーの大村英之助だとする説が半ば定説化されつつあるが、個々の事件について、具体的な資料を掲げて論証したものはほとんど見つかっていない。党分裂時代を総括したと自負する日本共産党もこの問題について解明をしておらず、摘発に積極的に取り組んだはずの警備公安当局も国会など、公的な場でその全貌について明らかにしていないままである。

 トラック部隊の関連が注目されている事件で、具体的な新聞記事や文学作品(水上勉の「霧と影」など)に記録が残されているものとして、「繊研事業部事件」がある。
 

1956年5月、警視庁捜査二課と東京久松署が1950年にレッドハージを受けた全労連幹事で全逓役員の「M」が社長を務めていた会社「株式会社繊研事業部」の取込み詐欺容疑事件を捜査。文芸評論家の佐々木基一らが出席した『中央公論』1957年1月号の座談会『若き日共党員の悩み』のなかで、武井昭夫がこの問題を追及した。
 

1957年8月22日「トラック部隊」一斉捜索・摘発の際にも、「繊研事業部事件」との関連が報道された。事件があたかも、事件を起こした株式会社(1954年8月設立)の母体とされる「財団法人日本繊維経済研究所」1948年7月20日設立)関連の企業全体に及ぶ事件であるかのようにとらえられがちだが、実際は、この財団法人から、別の系統で枝分かれしていった「繊研新聞社」(1956年2月設立)や「大阪繊維研究社」(1954年8月設立)は、その後、事業を継続し、現在も業界専門紙・誌の発行を続けている。

参考:以下WEBからの抜粋

1950年のレッドパージによって、党員が根こそぎ追放された日本共産党は、組織と財政に大打撃を受けた。占領軍総司令部の指示により、中央委員24人が公職から追放された日共は、二重組織となり、このため徳田らは地下に潜り、地下組織の責任者となった。そして資金収奪を目的とする「トラック部隊」が結成された。


この組織は元文化部長・大村英之助を隊長として、中小企業相手に資金を収奪し、党を維持しようとしたものである。詐欺、横領、特別背任、外為法違反など企業を乗っ取り、計画倒産などをおこなった。

トラック部隊が発覚したのは55年8月11日から神宮外苑の日本青年館で開かれた日共中央委員会と、第六回全国協議会の報告会のことである。それまで潜行していた野坂、紺野、志田が姿を現し、3人は逮捕された。

トラック部隊は51年以降、数億円の収奪を行なった。警視庁公安部はこうした事件のうち、309件、25人を検挙。被害総額3億9千万円となった。また、この事件の取り調べから、ラストヴォロフが大村の手を通じて、日共へ資金援助していたことも発覚した。

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