第一次共産党 [非合法秘密結社]

第一次共産党

第一次共産党(だいいちじきょうさんとう)
1921年(大正10年)4月ないし翌1922年(大正11年)7月に創立されたのち、1924年(大正13年)3月頃に解散されるまでの、非合法組織時代の日本共産党を指す呼称。当時は非合法な秘密結社であり、公認された政党でないどころか、その実体は、いくつかの思想団体の寄せ集めにすぎなかった。

管理人:酒から御挨拶
Twitterでの140文字に限界を感じ、ブログに戻ってまいりました(引き続きTwitterではリンク記事中心に活動してまいります)ここでは、難解な記事より核心部分を搔い摘んで記事にしていきます。詳しく知りたい方は文中からのリンクを参照してください。それでは宜しくお願いいたします。

1917年にロシアで共産主義革命が起き、世界革命を目指すロシア共産党(ボリシェヴィキ)は1919年コミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インター)を成立させ、ロシア革命に狂喜する各国の運動家や運動団体にはたらきかけ、各国に支部を作っていった。当時の日本には、大逆事件など明治期の弾圧の結果、一握りの社会主義者しか残っておらず、それも厳格な監視のもとにあった。ロシア革命の影響を受け、日本においても社会主義革命をめざす党を結成しようとする動きが起こり、共産党を結成しようとする運動が活発化する。
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アメリカで社会主義活動をしていた近藤栄蔵は、1918年に日本で勃発した米騒動のニュースを聞いて、日本で共産党を結成して革命を遂行しようと決意、1919年(大正8年)に帰国して、堺利彦・山川均・荒畑寒村ら、明治以来の古くからの社会主義者と連絡を取り合うようになる。1920年(大正9年)10月にはコミンテルンの使者が接触した

無政府主義者の大杉栄が上海に行くことになった。資金を受け取って帰国した大杉は、1921年1月、週刊『労働運動』を創刊。さらに近藤が、1921年5月大杉との関係から上海に行くことになった。近藤は運動資金など6500円を受け取って帰国。近藤は帰国後、暁民会のメンバーを中心として「日本共産党」を称して活動中、近藤自身は11月に、続いて12月にこの暁民共産党は一斉検挙にあって、暁民会を中心とする運動は中断した(暁民共産党事件)。

1921年(大正10年)4月、堺・山川・近藤・橋浦時雄・渡辺満三・高津正道らが東京・大森駅近くで会合し、「日本共産党準備委員会」(コミンテルン日本支部準備会)を秘密裡に発足。

1921年(大正10年)10月にコミンテルンから張太雷が来日し、堺、山川、近藤らと連絡して、翌11年1月から開かれる極東民族大会(モスクワ)への代表派遣を要請。この要請に応える形で翌1922年1~2月の「極東諸民族大会」に他の社会主義者、アナーキストのグループと共に日本代表(7名、内アナキスト5名)を派遣。同会議にて日本代表はコミンテルンより日本共産党創設の指導と活動資金を受けスターリンらから日本における共産主義運動についての指示も受け帰国、日本支部準備会に報告、帰国後は党創設準備を開始。
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1922年(大正11年)7月15日、東京府豊多摩郡渋谷町にて堺・山川・近藤・吉川守圀・橋浦・浦田武雄・渡辺・高瀬の8名が会合をもち、非合法(治安警察法違反)に日本共産党を結成した。当時の党員数は100名余。委員長を堺とし、堺、山川、荒畑寒村、近藤、高津、橋浦、徳田球一の7名を中央委員に選出。現在の日本共産党はこの会合を創立大会(第1回党大会)とし、この日付を創立記念日としている。

創立されたばかりの共産党は、1922年11月のコミンテルン第4回大会に代表2名を派遣して党の結成を報告コミンテルン日本支部として承認された。翌1923年2月、千葉県市川市の料亭で第2回党大会を開き、コミンテルンの標準規約を基にした党規約を決定。同年3月、北豊島郡石神井村(現・練馬区石神井)で臨時党大会を開催、ブハーリンが起草した「党綱領草案」(ブハーリン綱領草案)を検討したが、「君主制廃止」のスローガンが含まれていたため一致に至らず、綱領は決定されなかった。その結果、コミンテルンへはブハーリン綱領を採択したように報告し、内部的にはどこにも載せないことにした。

折りしも1922年に政府は「過激社会運動取締法」「労働組合法」「小作争議調停法」の制定を進めていた(3法案とも成立せず)ため、共産党は1923年6月の一斉検挙まで労働組合、民主団体の3法案反対運動への組織化に取り組んだとされる。また、党の大衆組織として青年組織である「共産青年同盟」(共青)と労働者組織の「レフト」もこの時期結成させた。

しかし、結党から1年足らずで共産党は一斉検挙を受けることになる。佐野学の隠匿党内文書の発見に端を発して、堺利彦・荒畑寒村ら主要党員が検挙される第一次共産党事件が起きた。共産党もこの一斉検挙を事前に察知したため、佐野、高津、近藤など幹部5名を中国へ亡命させることに成功した。起訴された主要幹部は、当初は全員黙秘の方針をとっていたが、1923年(大正12年)9月の関東大震災時の亀戸事件により左派の労働運動活動家の川合義虎(共青委員長)・平澤計七らが殺害されたことで、法廷にて「宣伝」を口実に自供を開始。大審院まで争ったが1926年8月4日、起訴された29人のうち27人の有罪が確定し禁錮10ヵ月以下の刑を受けた。加えて堺・山川らを中心に共産党結党は時期尚早だったという理由で解党論が高まった。

1924年(大正13年)3月に東京府荏原郡森ヶ崎(現・東京都大田区大森南)の温泉宿にて、佐野文夫、荒畑勝三、徳田球一、野坂参三らが会議し、党の解体が決定されると同時に、その為のビューロー(残務整理委員会)を設置(森ヶ崎会議)。この1924年2月から3月の会合にて、荒畑を除くほとんどの幹部がこの提案に同意し、「解散声明」を決議。第一次共産党はいったん解散した。
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その後、コミンテルンは第5回大会に出席した佐野学・近藤栄蔵に対して党再建の指示を出し、帰国した佐野を中心に1925年夏に「再建ビューロー」が結成、これを基盤にして1926年(大正15年)12月には「第3回党大会」が開催、共産党は再建された(第二次共産党)。日本共産党再建に参加しなかった堺利彦、山川均、荒畑寒村らは、再建された共産党との論争激化後、1927年に『労農』を創刊、いわゆる労農派を形成した。

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