得撫島(うるっぷとう)

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得撫島(うるっぷとう)
千島列島にある島。ロシア名はウループ島 (Остров Уруп) 英語表記はUrup 島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒」を意味する「ウルㇷ゚」から。

地理
長さ約 115 キロメートル、幅は約 20 キロメートルで、択捉水道(ロシア名:フリーズ海峡 пр. Фриза)を隔て、およそ 40 キロメートルで択捉島と相対し、北東方向110 キロメートルには新知島がある。全体的に北東から南西に向けて細長いエンドウマメのような形を持つ。国後島より僅かに小さく、千島列島では4 番目に大きな面積を有する。

山岳地帯には活火山が含まれ、主な火山は以下の通り。

 得撫富士(うるっぷふじ 1,328 メートル 英語表記:Kolokol)
 台場山(だいばざん、542 メートル Rudakov)
 硫黄山(いおうざん、998 メートル Tri Sestry)
 白妙山(しろたえさん、1,426 メートル、Ivao 最高峰)

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以上の火山の周辺にも複数の山がある。火山があるため、現在も噴煙や温泉が噴出しており、硫黄の臭いが漂う。オホーツク海側には、温泉が滝となって流れている箇所がある。taki

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島は海獣保護区に指定されていることから「ラッコの島」とも呼ばれている。北端の烏ノ尾岬は最大のラッコの生息地であり、300~400頭が確認されている。f4a100b63f7

択捉島との間には、植物学で言う分布境界線(宮部線)がある。ここは(植物学上の)温帯亜寒帯との境であり、得撫島より北の島には広葉樹林が見られなくなる。
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旧ソ連の実効支配が始まってからは国境警備軍が駐留していた。北東部に防空レーダー基地、測候所、灯台などが集中し、150人程が居住していたが、現在は撤退により放置され、廃墟や残骸としてのみ残る。トーチカが残っていると書かれていますが、発見できませんでした。
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気象通報の島
かつて得撫島は、NHKラジオ第2放送の「気象通報」で「ウルップ島」としておなじみの島だった。しかし1997年7月19日を最後に観測結果の入電が途絶え、2001年12月3日に正式に観測地点から除外される。その理由は調べた所冷戦終結で島は無人化され、それに伴い放置されたとの事でした。
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得撫島の資源
現在一般的に無人島となっておりますが、金を狙った試錐探鉱が行われた結果、Ainskoe 鉱床と Danchenskovsky 鉱床で有望な鉱徴が捕捉されました。キプロスの投資会社Sloway Group が、2010年に開発許可を取得し、現在、大型の重機も入り採掘を開始しています。既に数十人規模で居住しており、近い将来、かなりの規模で増える見込みであり、また同社は観光にも乗り出す予定と言っています。
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環境汚染
下記画像は冷戦終結時に投げ捨てられたゴミでありますが、今後開発が進み居住者が増えるにつれ環境汚染が心配な状態です。上の画像を見れば分かりますが、法面(のりめん)にそのまま掘削残土を落としています。生態系に影響が出ても全くおかしくありません。工事開始時点の状態でコレですから、今後どの様に進んでいくのか更なる注意が必要です。
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歴史
得撫島には元々定住者はいなかった。択捉島など他島のアイヌ民族が漁猟のために一時的に居住していた。※アイヌの遺跡として、現在遺跡が発掘されている。iseki1

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1635年(寛永12年) 松前藩は藩士に命じ国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成。
※画像の地図は、1762年(宝暦12年) 松前志摩守宛
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1643年 オランダ東インド会社フリースが上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名して、領土宣言をした。西洋人では初の「発見者」となる。
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1651年(慶安4年)  正保国絵図のため松前藩が提出した地図に、「ウルフ」の名がある。正保国絵図

1700年(元禄13年) 幕命により松前藩は千島や勘察加を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。元禄国絵図

1715年正徳5年) 松前藩主は幕府に対し、「十州島唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。

1754年(宝暦4年) 松前藩家臣の知行地として松前藩によって開かれたクナシリ場所に含まれる。

1766年  ロシア人イワン・チョールヌイがカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始。以後、日露両国の活動が交錯する。

1772年 千島アイヌとロシア人が衝突し、ロシア人が島から退去。しかし、その後もロシア人の活動は続く。

1786年(天明6年) 最上徳内幕吏として初の本格的な調査を実施。

1791年(寛政3年) 最上徳内が択捉島と得撫島を探検。

1801年(享和元年) 富山元十郎・深山宇平太が日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の柱を建てる。

1855年(安政元年) 日露通好条約不平等条約のひとつ)によりロシア領とされる(択捉水道が国境線になる)。クリミア戦争中、9月に英仏海軍によって一時的に占領される。
1875年(明治8年) 樺太・千島交換条約により再び日本領となり北海道 (令制)千島国得撫郡に含まれる。
日本政府は生活物資の補給の問題や国防上の理由から明治後期にアイヌを色丹島に移し、町村制を施行せず北海道根室支庁の直轄地として統治する。

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