幌筵島(ぱらむしるとう)

Paramushir

幌筵島(ぱらむしるとう、ほろむしろとう)
千島列島の北東部にある島。波羅茂知島(ぱらもしるとう)と表記されることもある。ロシア名はパラムシル島 (о.Парамушир) 英語表記は Paramushir
島の名前の由来は、アイヌ語の「パラ・モシル(広い・島)」「ポロ・モシル(大きい・島)」から。千島アイヌは ウレシパモシリ(人を多く育てた島)とも呼んでいた。
漢字表記で「幌(ほろ)」を「ぱら」や「筵(むしろ)」を「むしる」と読ませるのは、アイヌ語由来地名の漢字表記などに、そのような例は数多くあり、こちらは「ほろむしろ」と読む例もあるが一般的には「ぱらむしる」と読むことが普通である。

地理
千島列島と北方四島を合わせると、択捉島についで第2位の面積を持つ島である。北東の占守島とは幌筵海峡(ロシア名:第2クリル海峡・Второй Курильский пр)で、南西の志林規島とは志林規海峡(ロシア名:ルジナ海峡 пр.Лужина)で、南の温禰古丹島とは温禰古丹海峡(ロシア名:第4クリル海峡・Четвертый Курильский пр)によって隔てられている。また、太平洋側の東には鳥島列岩がある。
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高さ 1,000 メートルを越える急峻な山岳が聳えており、その多くは火山で、一部は現在も非常に活発な活動が見られる。主な山は次の通り(北から)

千島硫黄山(ちしまいおうざん)
海抜 1,156 メートル、ロシア名:エベコ山 влк.Эбеко 英語表記:Ebeko213_1393_Ebeko_ozero_Lenya

大日本帝国時代には硫黄の採掘場があった。8ヶ所の噴気孔からは火山ガスが噴出している。先史時代から噴火していた可能性があり、現在まで確認されている限りでは1793年から2009年まで、数十年から数年おきに噴火している。火口の近くにはかつて温水の湖があったが、1990年の噴火で埋もれた模様。getmphotoparam1
千倉岳(ちくらだけ)
海抜 1,816 メートル、ロシア名:チクラチキ山 влк.Чикурачки 英語表記:Chikurachki
 千倉岳は、千島列島全体を合わせると阿頼度島阿頼度山(同:アライト山 влк.Алаид 2,339 メートル)と国後島爺爺岳(同:チャチャ山влк.Тятя 1,822 メートル)に次いで第3位の高さである。
 山の麓にはミヤマハンノキが密生しているが、中腹ではキバナシャクナゲが群生している。a982928s-960

1690年の10年前後、1853年、1859年、1933年に噴火して以降、1957年 - 2008年の間に数年間隔で噴火している。chik4
後鏃岳(しりやじりだけ)
海抜 1,772 メートル、ロシア名:フッサ山 влк.Фусса 英語表記:Fussa 円錐形の山の形が美しいのが特徴である。1742年と1854年に噴火しているが、1933年は噴火があったかどうかはっきりしていない。fuss
冠岳(かんむりだけ)
海抜 1,681 メートル、ロシア名:ロモノソフвлк.Ломоносова 英語表記:Lomonosov 千倉連山と呼ばれていた山の一つである。115251545
白煙山(しろけむりやま)
海抜 1,345 メートル、ロシア名:カルピンスキー山 влк.Карпинского 英語表記:Karpinsky 1957年の噴火のみ確認されている。paramu6ir101

主は河川は、轟川(全長約 20 キロメートル、幌筵島で最大の河川)、熊川(全長約 20 キロメートル)、鱒川、速毛川が太平洋側に注ぎ、オホーツク海側には茂寄川、西川、加熊別川などが注いでいる。18parm

中心地セベロクリリスクСеверо-Курильск=セヴェロクリリスク、意味は「北千島の町」、日本名は柏原)で、人口約 5,000 人。ロシア連邦サハリン州の北クリル管区の中心地であり、北千島で唯一民間人が定住している島である。また、セベロクリリスクはNHKラジオ第2放送の「気象通報」ではおなじみの地名でもある。
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歴史
先史時代から千島アイヌが先住していた。

1644年(正保元年) 「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。

1711年、ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキーが上陸し、納税(毛皮の献納)を求めるが、拒否される。

1713年、コズイレフスキーは再びパラムシル島に上陸し、毛皮を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。

1715年(正徳5年) 松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。

1855年(安政元年) 日露和親条約によって、日本とロシアの間で、ロシアの領土であることが一旦は確定された。日露和親条約原文

1875年(明治8年) 樺太・千島交換条約により日本領となる。

日本領だった時代には、加熊別、村上、摺鉢などには集落、鮭や鱒の製缶工場があり、駐在所や郵便局(季節開業)も置かれて、漁業シーズンには季節労働者で賑わっていた。夏期期間には函館や小樽から命令航路の船が通い、柏原湾や加熊別、占守島の片岡湾などに寄港していた。

1940年(昭和15年) 陸軍によって北千島臨時要塞が建設され、海軍も逐次、飛行場を整備していった。

1941年6月の独ソ戦開戦以降、陸海軍共に千島列島に実質的な部隊配備を始める。陸軍は北千島に展開する兵力を1個連隊規模へ増強、海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。

太平洋戦争中、北から侵攻するであろうアメリカ軍に備えるため柏原(現在のセベロクリリスク)の高台を含め、日本軍の飛行場や地下に掘られた病院が造られていた。現在、どの場所も廃墟や残骸が残るのみである。hikou
1943年 アッツ島守備隊の玉砕キスカ島守備隊の撤退により北千島は対米防衛の最前線となり、既配置部隊にキスカ島撤退部隊及び内地からの増強部隊を合わせて、陸軍の北千島守備隊は師団規模に増強された。海軍は第五艦隊を支援するため第十二航空艦隊を創設、そして第五艦隊と第十二航空艦隊を統括指揮する北東方面艦隊を編成した。Kur3 (1)
海軍は一式陸上攻撃機30機、零式艦上戦闘機15機、二式水上戦闘機12機、零式水上観測機8機、零式水上偵察機8機、さらに零式水上偵察機6機を搭載する君川丸 (特設水上機母艦)を配置していた。kamikawamaru
1943年7月 アメリカ軍は奪還したアッツ島に設営した飛行場へ第11空軍 (アメリカ軍)を進出させ、B-24 (航空機)B-25 (航空機)による空襲が始まる。陸軍は一式戦闘機23機装備の飛行第54戦隊を派遣し、防空任務に加わった。oscar-007-px800

※画像の機体は、1990年代にコレクターが占守島から回収した4機分の隼の残骸から復元した機体。現存機を参考に、忠実にレストアされた。現在は、アメリカ、ワシントンにある The Museum of Flight に展示されています。
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1944年 千島方面防衛のため第27軍司令部が択捉島に新設され、北千島には戦車第11連隊を含む兵力が増強される。既配置の部隊と増強部隊を合わせて、占守島と幌筵島に第91師団が編成される。1
1945年に入ると本土決戦準備のため、陸軍航空部隊と海軍部隊のほとんどが内地に転用される。第91師団からも多くの部隊が抽出されて内地へ移されて、師団の任務は「幌筵海峡周辺地区及び占守島の要域確保」と変更されて終戦時まで占守島及び幌筵島に配置されていた。なおこの転用のための海上移動中に多くの部隊が、米軍の空襲、潜水艦の魚雷攻撃、艦砲射撃等で損害を受けている。

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