占守島(しゅむしゅとう)

Shumshu

占守島(しゅむしゅとう)
千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島о.Шумшу) 英語表記はShumshu
島の名前の由来は、アイヌ語の シュム・ウシ(南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もある。

地理
南西から北東へ約 30 キロメートル、幅は最大で 20 キロメートルの大きさで、全体的に楕円形の島である。北東のカムチャツカ半島ロパトカ岬とは千島海峡(ロシア名:第1クリル海峡 Первый Курильский пр)で、西の幌筵島とは幌筵海峡(波羅茂知海峡、ロシア名:第2クリル海峡 Второй Курильский пр)で隔てられている。

島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある。海抜 200 メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。草原にはかつて日本人の住居があったが、現在は何も残っていない。島を流れる別飛川(べっとぶがわ)は、カラフトマスが遡上することがある。
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高台にある四嶺山(しれいさん、標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。現在では、戦車、砲台、戦闘機、飛行場、格納庫、トーチカなどの残骸や廃墟が残る。また、ロシアは小さいながらも軍事施設を設置している。
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オホーツク海と太平洋に囲まれ、夏季でも摂氏 15 度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス 15 度の極寒の上に猛吹雪に襲われることが多い。現在、ロシア名バイコーヴァ(Байково 日本名:片岡) という集落があるのみで、2013年現在、灯台守と家族の4人が定住するのみである。214_1438_Shumshu_Baykovo_wiki

先史時代から幌筵島と共に人が古くから居住していた。海獣や鳥が多く、生活に都合のよい場所だったとされる。16405119805_fed13e2e55_b

現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。

歴史
1700年(元禄13年) 元禄国絵図のため松前藩が幕府に呈上した松前島郷帳に、「しいもし」の名が見られる。元禄国絵図

1711年 ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキーが上陸し、納税(毛皮の献納)を求めるが、拒否される。

1713年 ロシア人コズィレフスキーは占守島に上陸し、住民からヤサーク(毛皮税)を取り立てた。

1715年(正徳5年) 松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1855年(安政元年) 日露和親条約によって、日本とロシアの間で、ロシアの領土であることが一旦は確定された。日露和親条約原文
1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約で樺太と交換され日本領となる。9月に樺太開拓使とアイヌ人が内地に引き揚げ、10月には日露両国間で譲渡式がおこなわれる。これにより、目前のロシア、後のソビエト連邦と向き合う最前線となり、国境警備の拠点として日本軍が駐屯
択捉島以北にはほとんど民間人の定住者はいなかったが、水産缶詰工場などが建設され、多くの漁民や工場労働者が季節的に滞在していた。
1892年(明治25年)7月4日以降、侍従片岡利和が上陸。目的は千島列島の調査で、これ以前に既に他の島を巡っていた。また、後にこの方面への開発が進むきっかけとなった。同年夏、片岡侍従らは海軍の柏原長繁大佐の軍艦「磐城」に便乗して帰るが、片岡調査団の根拠地は「片岡」という地名」になる。IJN_gunboat_BANJO_in_1889
千島報效義会
1893年(明治26年)8月31日 - 千島報效義会の会員が上陸して越年。
1895年 - 千島報效義会が一時退去するものの翌年、57 名により本格的な入植(片岡)を試みる。
1899年(明治29年)春、報效義会の拓殖事業が本格化、別所佐吉らが入植。

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1910年(明治43年) 小規模なカニの缶詰工場が発足。1914年に本格操業開始。第二次世界大戦前の最大人口(夏季に約 1,000 人)を数えるようになる。

1940年(昭和15年)9月、陸軍築城部が要塞建設に着手。

1945年(昭和20年)8月18日、日本がポツダム宣言の受諾を宣言した後、ソ連軍が島の北部の竹田浜に上陸し、日本軍と戦闘に突入。占守島は千島列島で唯一のソ連軍との激戦地となった。

4日間の戦闘の模様は下記参照

占守島 其の一
8月18日 突然ソ連軍がこの島に猛烈な砲撃にて奇襲上陸。第91師団は、この時、武装解除準備中であったが、漁船に女子工員400人名を分乗させ、北海道に向けて出港させます。

占守島 其の二
1945年8月18日 奇襲したソ連軍は、兵力13,000千人の大部隊でした。想像を絶する激戦。占守島守備隊の、この戦闘があって、日本は北海道を分割されずに済んだのす。

占守島 其の三
長島厚大尉 軍使としての任務 停戦交渉が纏ったのが21日の正午、堤師団長が、幌筵島沖にやってきたソ連警備艦キーロフに赴いて降伏文書に調印したのが22日13時頃でした。2

占守島の戦い
1945年8月15日(モスクワ時間8月14日)、日本のポツダム宣言受諾通告後、極東ソビエト軍総司令官は、第2極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に対し、カムチャツカ現有勢力により千島列島北部の占領を目的とする作戦の準備及び実施を命令した。なお、千島列島南部は、北千島とは別にサハリン(樺太)からの部隊が攻略する計画だった。
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ソ連軍の占守島上陸はポツダム宣言受諾に伴う日本軍の武装解除の最中、8月18日未明に開始され、急遽、武装解除を取り止めた日本軍守備隊の第91師団などと戦闘になった。上陸

戦闘は一旦はソ連軍を上陸地点である竹田浜にまで追い落とす状態で推移していたが、日本側は第5方面軍の戦闘停止命令に従い、軍使を派遣して停戦交渉を行い、8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、完全に停戦が成立した。24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は武装解除された。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名
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その後、新知島までの北部千島の日本軍は、8月27日までに武装解除された。9月初旬までに全千島がソ連軍に占領された。千島列島では占守島以外で戦闘はなかった。降伏後、武装解除された日本兵はシベリアへ抑留された。

ハバロフスク事件
かつてシベリアに抑留されていた人が、日本人としての誇りに目覚め、立ち上がった事件です。日本人抑留者は、誇り高い旧関東軍の兵士たちです。こらえ、我慢し、明日を信じ・・・
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占守島の戦い(ロシア側からの画像)t0

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占守島 戦いの痕跡1

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