北方領土 千島列島の地理と歴史

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北方領土
当ブログは、千島全島、南樺太までの全てを戦前の状態に戻せ!という基本的な主張をしているブログです。四島、二島という妥協した考えに基づき書かれている物ではありませんので、政府見解とも、他の領土問題を扱う団体とも基本理念は違っています。あくまでも、全島返還を国民運動として訴えて行きますので、その点、事前にご了承下さい。

千島列島(ちしまれっとう)
北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。クリル列島(ロシア語:Кури́льские острова́  ラテン文字: Kurilskiye ostrova 英: Kuril Islands)ともいう。国後島、択捉島、得撫島、幌筵島、占守島などの島々からなる。総面積10355.61km²

主に得撫島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島と呼ぶ。日本政府は択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島を北海道の属島とし、千島列島に属さないとしている。 なお、得撫島から磨勘留島までを中部千島と呼ぶことがある。

北千島 占守島・阿頼度島・幌筵島・志林規島

中部千島 磨勘留島から得撫島まで

南千島 択捉島、国後島

北方四島 択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島

当該地域の領有権に関する詳細は「北方領土 領土問題」の項目を参照のこと。

地理
千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。成層火山の頂上が北海道本島にぶつかったものが現在の知床半島とされる。プレート

プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、シムシル島東方沖でマグニチュード7.9の地震が発生した。また、2007年(平成19年)1月13日にも、シムシル島東方沖でマグニチュード8.2の地震が発生した。jishin

千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。xxx

温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。0_12036c_f11cddc7_XXL

列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。OtYjEdRbkDg

島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。2

住民
択捉島、国後島、色丹島、幌筵島、占守島以外は定住人口の無い無人島である。2010年の国勢調査によると幌筵島(北クリル管区)に2,381人(セベロクリリスク(柏原)に2381人)、クリル管区(択捉島)に6,064人(管内のクリリスク(紗那村)に1,666人)、南クリル管区(国後島、色丹島)に10,290人(管内のユジノクリリスク(古釜布)に6,617人)となっている。2010年の国勢調査による千島全域の総人口は18,735人。近年は幌筵島、択捉島で人口が引き続き減少する一方、国後島は減少から増加に転じている。
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生態系
海の生物
太平洋の大陸棚の縁に位置する海底地形、および海流の影響(オホーツク海内部で、アムール川の運ぶ養分を含んだオホーツク環流と、カムチャツカ半島東岸を流れて千島列島北部から入り込んだ養分豊かな親潮が合流し、これがさらに千島列島から流れ出し親潮と再合流する)により、列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。
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千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。

さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。
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魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。これらの哺乳類はかつてアイヌ人などの捕獲の対象となり、その肉は食料に、皮や骨はさまざまなものの原料(毛皮の服など)になってきた。千島列島への民族集団の広がりも、これらの生物を追っての移住だった可能性もある。19世紀から20世紀はじめにかけ、オットセイは毛皮採取のために乱獲され、例えば雷公計島に19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならず1960年代以来これらの狩猟の報告はない。 かつて千島列島でも見ることのできたニホンアシカは、魚を捕食することから害獣として駆除された結果20世紀はじめにはほとんど見られなくなり絶滅したとみられている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。
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ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲された。より価値の高いラッコの毛皮を手に入れるためロシアの千島列島への勢力拡大が活発になり、日本の権益と衝突する結果になった。ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。
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千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。
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陸の生物
千島列島の陸の生態系は、南の北海道本島やサハリン、北のカムチャツカ半島などから来た、北アジアと同様の種が構成している。種の多様さにもかかわらず、固有種は少ない。17

面積の小ささと地理的孤立により、大型陸上哺乳類はあまり生息していない。キタキツネやホッキョクギツネは1880年代に毛皮交易のため持ち込まれた外来種である。さらに、同じ頃持ち込まれたネズミ目の生物が陸上哺乳類の多くと入れ替わった。列島南北の大きな島にはヒグマ、キツネ、テンなどが元から住んでいる。また南千島の大きな島々にはシカもいる。ハヤブサ、ミソサザイ、セキレイなどの鳥も森に住んでいる。dsc05070_1

クリルアイランドボブテイルという猫が生息している。これはジャパニーズボブテイルに似た短い尾を持つ突然変異種の猫で、ロシアの猫種登録団体からの認定も既に受けている。neko

歴史
第二次世界大戦まで

1600年以前 アイヌ人が、居住していたのは確実であろう。なお、アイヌ人の居住以前に「オホーツク系」とされている民族が先住していたとされている。チャシが建設されていた。
アイヌの痕跡:宇志知島 松輪島 捨子古丹島 春牟古丹島 温禰古丹島 幌筵島 占守島

1635年(寛永12年) 北海道を支配していた松前藩は、北海道全島及び千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行いました。

1643年(寛永20年)、オランダのフリースは、ウルップ島に上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名して、領土宣言をした。択捉島には「スターテンライト」(オランダ国の島)と名付け、国後島に上陸した。higashiind

1644年(正保元年) 幌筵島 幕命により諸藩から提出された国絵図に基づいて、幕府が作成した正保御国絵図(正保国絵図)には、「くなしり、えとほろ、うるふ」などの島名がはっきり記載されています。正保国絵図

1651年(慶安4年) 阿頼度島 正保国絵図のため松前藩が提出した地図に、「ヲヤコハ」の名がある。

1661年(万治4年) 択捉島に伊勢国の七郎兵衛の船が漂流した。アイヌ人たちの助けで国後島を経て蝦夷(北海道)へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。

1700年(元禄13年) 松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。この郷帳には北海道本島からカムチャツカ半島までが記載されている。

1711年(宝永8年) 幌筵島 占守島 ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキーが上陸し、納税(毛皮の献納)を求めるが、拒否される。

1711年(宝永8年) ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から北千島の占守島に侵攻。占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。

1713年(正徳3年)  ロシア人のコズイレフスキーは、北千島の幌筵島に上陸して占守郡のアイヌ民族を支配し、幌筵島を占領した。また、幌筵島 占守島住民からヤサーク(毛皮税)を取り立てた。

1715年(正徳5年) 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。

1731年(享保16年) 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。

1745年(延享2年) 5月、竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11名が中部千島の温禰古丹島に漂着。

1754年(宝暦4年) 松前藩は国後・択捉・得撫の三島を版図とする国後場所を開いた。

1766年(明和3年) 得撫島 ロシア人イワン・チョールヌイ(Иван Черный)がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始。得撫島に来て、長期滞在(居住)して越年したが、住民の反抗にあって翌年帰国。このウルップ島に居住した イワン・チョールヌイが、同島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てていた。文献上でのロシア人最初の痕跡である。その後、ロシア人は再々この方面に進出しているが、住民との間に衝突が絶えない状況であった。

1770年(明和7年) 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる。

1771年(明和8年) アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す。同年にはハンガリー人のモーリツ・ベニョヴスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる。

1776年(安永4年) ウルップ島 ロシア商人シャパーリンも同島アイヌからサヤークを取り立てている。

1770年代  ロシア人が得撫島や択捉島、国後島などに現れる。

1778年(安永7年) 北海道・霧多布にまで現れ交易を求める。ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議したという。

1785年(天明5年) 最上徳内らを調査に派遣しました。同人は、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査。

1786年(天明6年) 択捉島 最上徳内が同島を探検した際、上陸時に3名のロシア人が居住し、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている(ロシアでは、国家に帰属し納税意識をもたせるため、進出した地で正教の布教がなされていた)

1789年(寛政元年) 国後場所のアイヌが蜂起する(クナシリ・メナシの戦い
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1798年(寛政10年) 幕府は、国防上、千島、樺太を含む蝦夷地を直轄地として統治することとし、大規模な巡察隊を同地方に派遣しました。このとき、近藤重蔵は最上徳内と共に国後島、択捉島を調査し、択捉島にアイヌのエカシ(首長)の了承のもと、「大日本恵登呂府」の標柱を建てています。

1799年(寛政11年) 近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らと共に、再び国後島、択捉島に渡り択捉島に本土の行政を移入、郷村制を施き、17か所の漁場を開くと共に幕吏を常駐させました。 また、航路や港の整備などにより、色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められました。

1800年(寛政12年) 択捉島 国後場所から新たに択捉場所が分立し、「エトロフ会所」を振別に開設したほか、ほとんどがアイヌである当時の同島住民1,118人の人別帳を作成した。さらに高田屋は老門に番屋を建て、漁場10か所を開き和人による漁業・越年を始めるなど、各村の礎が築かれていった

1801年(享和元年) 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、千島方面における国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたため、幕府は標柱を建てるとともに退去を求めている。

1804年(文化元年) 7月18日、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名が北千島の幌筵島東浦に漂着。

1805年(文化2年) 羅処和島 9月~1806年(文化3年)2月18日、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名がアイヌやロシア人ズヴェズドチョトフと共に滞在。

1806年(文化3年) 文化露寇(ぶんかろこう)ロシア人ニコライ・フヴォストフが樺太、択捉島ほかを襲撃・略奪する。
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1807年(文化4年) 択捉島 4月、紗那と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉のフヴォストフ(Хвостов)率いる露米会社の武装集団によって襲撃されるという「シャナ事件」が発生。紗那は、弘前藩と盛岡藩が警固を行っていたが、火力の差に圧されて奥地へ退避している。なお、会所に赴任中だった間宮林蔵も参戦し、徹底抗戦を主張している。この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた。その後も、盛岡藩など東北諸藩が警備にあたった。

1811年(文化8年) 国後島 ロシアの海軍軍人ゴローニンが、ロシア帝国軍に命じられた千島列島測量のため国後島に上陸すると、日本の幕府役人は彼を逮捕し、ロシア艦を拿捕、箱館に連行して幽閉した(ゴローニン事件
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1812年(文化2年) 春牟古丹島 9月24日、薩摩の永寿丸漂流民、喜三左衛門ら6名が漂着。そのうち3名は春牟古丹島で病死した。

1816年(文化13年) 択捉島 日本人の漂流民を乗せたロシア船パヴェル号が択捉島に来航、このとき督乗丸の小栗重吉、音吉、半兵衛の3名が帰国。

1855年(安政元年) 日露和親条約が締結され、択捉島以南を日本領として画定。樺太については国境を定めず、日露両国の雑居地とした。日露和親条約原文

1855年(安政元年) 択捉島 日露和親条約が締結される。この時日本はアイヌを日本国民としたうえで、アイヌの生活圏が日本領であると主張し、同島の領有をロシアに認めさせた。開国後は、同島は仙台藩の領地となり、仙台藩兵が駐留し警固した。

1868年(明治元年) 温禰古丹島 外国船が一艘、黒石湾の付近で難破し、遭難した船員が上陸して破船材を用いて二十棟ほどの屋舎を建て、一時的に居住したと伝えられている。

1872年以降 イギリスなどの船が入り込み、ラッコやオットセイの狩猟を開始する。

1872年 中部千島・捨子古丹島の火山が噴火し、出猟中の千島アイヌ13名が死亡。

1875年(明治8年) 樺太・千島交換条約 樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つ挙げていますが、列挙されている島は得撫島以北の18の島であって、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島は含まれていません。

明治10年代 日本政府は国策として、国防を理由に千島アイヌを色丹島に強制移住させた。慣れない生活と風土のため、アイヌの人口は激減する。

1884年(明治17年) イギリス人H.J.スノーが千島列島の測量を行い地図を作製する。

1893年(明治26年) 占守島 千島報效義会の会員が上陸して越年。

1893年(明治26年) 捨子古丹島 越冬していた千島報效義会の会員 9 人のうち 5 人が越渇磨島に出漁して遭難し、全員死亡した。

1893年(明治26年) 千島報效義会の会員9名が越年を試みるが、翌年、彼らの収容のために立ち寄った艦船の乗組員によって、越年小屋から4名の遺体が発見された。残されていた日記によると、9名のうち5名が越渇磨島に出猟したまま消息を絶ち、残る4名は重い水腫病(脚気)に罹り動けなくなった模様。発見者によれば、住居の密閉構造から起きた一酸化炭素中毒のために死亡した模様であるという。

1895年(明治28年) 占守島 千島報效義会が一時退去するものの翌年、57 名により本格的な入植(片岡)を試みる。

1899年(明治29年) 占守島 報效義会の拓殖事業が本格化、別所佐吉らが入植。

1905年(明治39年) 日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。これにより、ロシア領の沿岸地域における日本の漁業権も承認された。

1907年(明治41年) 日露漁業協約が締結されて、カムチャツカ半島の沿岸や沿海州の日本海沿岸での本格的な北洋漁業が開始。

1916年 (大正5年) 雷公計島 臘虎膃肭獣猟獲取締法によりラッコ、オットセイの狩猟が禁止されるが、すでに絶滅状態だった。

1917年 (大正6年) ロシア革命で社会主義革命政権が樹立されると日本はシベリア出兵などで対抗

1920年 (大正9年) 尼港事件で日本人居留民が虐殺される。

1922年 (大正11年) ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)成立後も国交は回復されなかったが、旧漁業条約による日本漁船の操業は続けられた。

1922年(大正11年)から1936年(昭和11年)、ワシントン海軍軍縮条約により要塞化は禁止された。1875年から日本領となっていたが、とりわけて防備は行われていなかった。

1925年 (大正14年) 国交回復

1926年 (昭和元年) 日ソ漁業条約が締結され、北洋漁業は再び法的根拠を得た。

1940年(昭和15年) 幌筵島 8月 幌筵臨時要塞建設命令 同年9月に着工し、同年11月、建設工事が完了した。同年10月に北千島要塞司令部が設置され、北千島要塞砲兵2箇中隊が配備された。

1940年(昭和15年) 陸軍によって幌筵島に北千島臨時要塞が建設され、海軍も幌筵島、松輪島、択捉島に逐次、飛行場を整備していった。

1941年6月の独ソ戦開戦以降、陸海軍共に千島列島に実質的な部隊配備を始める。陸軍は北千島に展開する兵力を1個連隊規模へ増強し、中千島、南千島にも部隊を配備した。海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。

1941年(昭和16年) 幌筵島 7月10日には関東軍特種演習に伴い、北千島要塞歩兵隊(歩兵3個中隊基幹)の編成が下令され、7月26日に第7師団長管理下で完結し、9月6日に到着した。

1941年(昭和16年) 幌筵島 北千島要塞歩兵隊 11月8日に本戦備が発令され、終戦まで活動を継続した。

1941年(昭和16年) 択捉島 11月20日、海軍により突如、あらゆる船の島への入出港が禁じられ、また島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止させられて電信機には常時、水兵の見張りがついた。そして情報統制下の単冠湾に南雲忠一中将率いる航空母艦6隻を含む軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結、真珠湾攻撃のため11月26日ハワイへ向け出港していった。この島外との徹底した情報の遮断は太平洋戦争が開戦した12月8日まで続けられた。
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歴史
大戦中と終戦
1942年(昭和17年) 幌筵島 北千島要塞歩兵隊 10月に北千島要塞歩兵隊主力(第1・第3中隊、銃砲隊の速射砲小隊)と第6要塞山砲隊、要塞工兵1個小隊などが抽出され、高射砲1個中隊とともに米川浩中佐の指揮の下でアッツ島に進出した。

1943年(昭和18年) 幌筵島 アッツ島守備隊の玉砕とキスカ島守備隊の撤退により北千島は対米防衛の最前線となり、既配置部隊にキスカ島撤退部隊及び内地からの増強部隊を合わせて、陸軍の北千島守備隊は師団規模に増強された。海軍は第五艦隊を支援するため第十二航空艦隊を創設、そして第五艦隊と第十二航空艦隊を統括指揮する北東方面艦隊を編成した。

1943年(昭和18年) 幌筵島 7月 アメリカ軍は奪還したアッツ島に設営した飛行場へ第11空軍 (アメリカ軍)を進出させ、B-24 (航空機)、B-25 (航空機)による空襲が始まる。陸軍は一式戦闘機23機装備の飛行第54戦隊を派遣し、防空任務に加わった。

1944年(昭和19年) 千島方面防衛のため、陸軍第27軍司令部が択捉島に新設され、北千島には戦車第11連隊を含む兵力が増強される。既配置の部隊と増強部隊を合わせて、占守島と幌筵島に第91師団が編成される。中部千島の温禰古丹島に海上機動第3旅団を、中千島に第42師団を、国後島に独立混成第69旅団を編成した。海軍の第五艦隊は南方作戦に参加し、そのまま転属となって北東方面艦隊は解隊したが、第十二航空艦隊は終戦まで千島、樺太方面の警戒にあたった

1945年(昭和20年) 本土決戦準備のため、2個の海上機動旅団、陸軍航空部隊と海軍部隊のほとんどが内地に転用される。この転用での海上移動中に多くの部隊が、米軍による空襲、潜水艦の魚雷攻撃、艦砲射撃等で損害を受けている。終戦時、占守島及び幌筵島に第91師団、松輪島に独立混成第41連隊、得撫島に独立混成第129旅団、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)に第89師団が配置されていた。

1945年(昭和20年) 8月14日大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明(第二次世界大戦が終結)し、日本軍はまもなく武装解除を行った。戦時中、千島列島も米軍機の攻撃にさらされていたが、ポツダム宣言受諾の了解をもって止んだ。

1945年(昭和20年) 8月18日 「占守島の戦い」 カムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守島に上陸、日本軍・第五方面軍第91師団と交戦した。8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側が1,567名、日本側が1,018名の死傷者(ソ連側資料)を出した。日本側資料ではソ連側が約3,000名、日本側が約600 – 700名の死傷者とされている。

スターリンは占守島を1日で占領し、余勢を駆って北海道の東半分(留萌から釧路を結ぶ線)を占領する予定であったが、予想外の抵抗を受けた(日本降伏直後、スターリンはトルーマンへの電報の中で、ソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領作戦準備を始めたが、北海道に関してはヤルタ協定に含めていなかったため、トルーマンに拒否された)。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。千島の攻略は樺太を見ながら行い、8月26日に松輪島を、8月28日から8月31日に得撫島を占領したが、第二極東軍は択捉島に一度近づきながら、その先に進まなかった。

択捉島以南(南千島)の占領は、8月28日に樺太制圧が終了した第一極東軍を転用した。南千島占領部隊は8月26日に大泊を出航し8月29日に択捉島を占領、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進めたが、両島の制圧には9月4日まで費やした。9月5日に歯舞群島を占領して一連の計画は完了したが、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道本島も侵略されていたと見る者もいる。

ソ連占領地域は北海道本島との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、駐屯していた日本軍は武装解除の上、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行された(シベリア抑留)。また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収していった。アイヌを含む千島住民の一部は残留の強い働きかけを受けたものの、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げることとなった。朝鮮籍の住民は日本引き揚げを認められず、彼らと結婚したものなど一部残留を希望する日本人は引き揚げなかった。

1945年(昭和20年) 停戦協定が正式発効した事により、日本の北洋漁業権益も消滅した。

1946年(昭和21年) GHQ 指令により、日本の施政権が正式に停止される。直後に、ソ連が領有を宣言する。

戦後

現在1951年(昭和26年) サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が千島列島の領有権を放棄する。しかしソ連はその条約に調印していないため、領有権の帰属先を定める国際法が存在せず、日本は北方四島以外の千島列島の帰属は未確定と主張する。

また日本政府は、サンフランシスコ講和条約による「千島列島」には、日露和親条約で国境を定めた択捉島以南の南千島は含まれないとしている。これらの島々は北方領土と呼ばれ、ロシア政府に返還を求めている。

1951年(昭和26年) 日本の独立が回復 農林省の水産庁が北洋漁業の再開を決定した。日本はアメリカ・カナダとの漁業条約を締結 ソ連との漁業交渉を開始

1956年(昭和31年) 日ソ漁業協定が調印された。これは当時継続中だった国交回復交渉を大きく後押しした。

1956年(昭和31年) 日ソ国交回復宣言調印 国交回復により漁業協定も発効

1957年(昭和32年) ベーリング海などの旧北洋漁業海域での操業が再開された

1959年(昭和34年) 阿頼度島 国境警備隊と国籍不明の人物が交戦し、隊長が戦死。上陸こそ阻止したが、その人物は服毒自殺を図った。現在ロシア国境軍は、駐留しておらず、隊舎や監視塔の廃墟が残っているのみである。

1982年(昭和57年) 国連海洋法条約に排他的経済水域として盛り込まれて、200海里海域内の経済活動保護が国際ルールとして定着していったが、北洋漁業の漁獲量は大きく削減された。

1988年(昭和63年) アメリカの200海里内での操業が不可能となったため、母船式のサケマス漁は終結した。

1991年(平成3年) ソ連が崩壊した後に成立したロシア連邦が実効支配を継承しているものの、法的には帰属未定の土地である。

1992年(平成4年) 日本の漁船団はロシア連邦200海里内の限定された地域でのみの操業となっている。

2002年(平成14年) 新知島 ロシアが核燃料の最終処分場を新知島に設ける構想が浮上するが、環境や費用の面から頓挫に終わる。

 

旧ソ連はサンフランシスコ講和条約において、日本が得撫島以北の千島列島だけを放棄すると明言してはいないことや、ヤルタ会談、ポツダム宣言、カイロ宣言、降伏文書、国連憲章第107条、マッカーサー命令、日ソ共同宣言などを根拠として、ソ連による全千島の領有は正当だと主張しているが、日本政府はヤルタ会談での秘密協定は国際法違反だとしている。

北方領土に関しては、中華人民共和国のように「日本の領土であるが、ロシアの占領下にある」との立場を取っている国もある 。欧州議会は、2005年(平成17年)7月7日に、北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択した。

2010年3月31日まで北方四島のほか、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室の税務署管轄とされていたが、2010年(平成22年)4月1日に「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成21年3月31日公布)」と「財務省組織規則の一部を改正する省令(平成21年10月26日 財務省令第67号)」により、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡については法令上も消滅した。

日本共産党や維新政党・新風は、全千島列島が樺太・千島交換条約で平和裏に日本の領土になった経緯とソ連がサンフランシスコ平和条約に調印していないことをもって、全千島列島の返還を主張している。

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